TRADITION

教養の高い名君が急速に衰退、
今川義元
「戦国武将名鑑」

2021.5.2
教養の高い名君が急速に衰退、<br>今川義元<br><small>「戦国武将名鑑」</small>

15世紀末から16世紀末、日本は戦乱の時代。室町幕府が完全に失墜し、守護大名に代わって全国で戦国大名が勢力を増した。日本史上の中でも戦国時代は、現代においてもなお伝説的な武将が多く存在している。人気の武将を図鑑形式で紹介する「戦国武将名鑑」。今回は、教養の高い名君が急速に衰退、今川義元(いまがわよしもと)です。

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生没年
1519~1560年

Place
駿河国(静岡県東部)
Data
由来|今川氏
幼名|方菊丸(幼名)→梅岳承芳→義元
正室|定恵院(武田信虎の娘、信玄の姉)

丸に二つ引き両

駿河・遠江国を支配した戦国大名。2万5千の大軍を率いて尾張国へ侵攻しようとするが、わずか10分の1の兵力とされる織田信長の軍勢に敗れ、42歳で戦死する。この“桶狭間の戦い”は、以後、急速に勢力を拡大していった信長にとってターニングポイントとなる戦いとされている。一方で、名家として君臨していた今川家は急速に衰退したため、義元は現在に至るまで評価を下げてしまっている人物の一人といえよう。馬にも乗れないほどの肥満体型だったとか、公家生活に溺れてお歯黒や薄化粧をしていたというエピソードが伝わっているほどだ。しかし、実際は教養が高く、領国支配にも積極的に取り組んだ名君だったとされている。敗れた相手が信長でなければ、後世の評価も変わっていたのかもしれない。

「いつまでも童心でいるな」

義元が、放蕩生活を送る子・氏真を戒めた言葉。公家趣味のイメージが強い義元だが、公私ともに厳格な人物だったのかもしれない。

年表

1519 駿河国に生まれる
1522 臨済宗の善徳寺に出家
1536 跡継ぎの兄・氏輝が急死。当主選定が混迷化し、花倉の乱が起こる。義元は還俗して家督を相続
1537 抗争状態にあった甲斐国の守護・武田信虎の娘を正室に迎え、甲駿同盟を締結
1540年頃 織田信秀が三河国に侵攻を開始。今川軍は三河国の武将と連合して1542年に織田軍と一大決戦に臨むも大敗したとされている
1549 三河国を支配下に置く
1554 嫡子・氏真と北条氏康の娘とを縁組みし、甲相駿三国同盟を結成
1555 第二次川中島の合戦で、武田晴信と長尾景虎(上杉謙信)の仲介をし和睦させる
1560 桶狭間の戦いで戦死

ゆかりのスポット

名古屋市にある桶狭間古戦場公園。今川義元と織田信長の像を見ることができる。

桶狭間古戦場公園
住所|愛知県名古屋市緑区桶狭間北3
桶狭間古戦場観光案内所
住所|愛知県名古屋市緑区桶狭間巻山2037
URL|https://okehazama.net/modules/osirase/index.php?page=article&storyid=278
※古戦場公園には駐車場が無いので、観光案内所の駐車場をご利用ください。 周辺の史跡を自由に散策できます。

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Supervision=Sunao Kawaguchi text=Ken Motoshiro illustrator=Mariya Arai, A&W
2013年2月号「武士道」

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