TRADITION

敵中突破など武勇伝が残る、
島津義弘
「戦国武将名鑑」

2021.5.15
敵中突破など武勇伝が残る、<br>島津義弘<br><small>「戦国武将名鑑」</small>

15世紀末から16世紀末、日本は戦乱の時代。室町幕府が完全に失墜し、守護大名に代わって全国で戦国大名が勢力を増した。日本史上の中でも戦国時代は、現代においてもなお伝説的な武将が多く存在している。人気の武将を図鑑形式で紹介する「戦国武将名鑑」。今回は、敵中突破など武勇伝が残る剛将、島津義弘(しまづよしひろ)です。

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生没年
1535~1619年

Place
薩摩国(鹿児島県西部)
Data
由来|島津氏
改名|忠平(初名)→義珍→義弘→惟新斎、自貞(法号)
正室|宰相殿(園田清左衛門の娘)
側室|北郷忠孝の娘

十文字

九州地方を代表する戦国大名の一人。一時は豊後国や日向国も支配下に置いたが、秀吉の九州攻めに屈服し、領地のほとんどを失ってしまう。秀吉に仕える身となるが、実力は秀吉も一目置いていたとされる。義弘は数々の武勇伝で知られるが、関ヶ原の戦いでとった敵中突破の手法は有名だ。西軍として参戦した義弘は、家康率いる東軍優勢の状態の中、迫り来る追い手を少数の兵士を使って足止めさせる手法を繰り返し、退却を図ることができたのである。この大胆極まりない“捨て奸(すてがまり)”の戦法を知った家康は驚愕したとされる。薩摩に戻った義弘を征伐するため、家康は九州の大名に依頼して兵を挙げるが、ついに義弘を攻略することができなかった。江戸年間を通して薩摩藩は強大な力を有し、幕末には討幕運動の中心となった。

「老武士のため、伊吹山の大山を越え難し」

あとに「たとえ討たれるといえども、敵に向かって死すべしと思う」と続く。“捨て奸”の戦法をとる直前のひと言。伊吹山を越えることが困難なので、討たれることを覚悟の上で突撃することを決断。

年表

1535 薩摩国に生まれる
1554 父とともに岩剣城にて初陣
1557 蒲生氏を攻めた際にはじめて敵の首級を挙げた。しかし義弘も5本の矢を受け重傷を負う
1572 木崎原の戦いで、伊東氏3000の大軍を300の兵で打ち破る
1578 耳川の戦いに参加して、豊後国から遠征してきた大友氏を破る武功を挙げる
1586 豊後国に侵攻して大友領を侵食
1587 豊臣秀吉の九州征伐軍と日向根白坂で戦うが(根白坂の戦い)敗北。秀吉に臣従する
1592 文禄の役で朝鮮に渡海
1597 慶長の役で再び朝鮮に渡海
1600 関ヶ原の戦いで敵中を突破
1619 大隅国で病死

ゆかりのスポット

鹿児島県姶良市にある島津義弘が祀られている神社。毎年武道・郷土芸能などが奉納されている。

精矛(くわしほこ)神社
住所|鹿児島県姶良市加治木町日木山311-ィ
TEL|0995-62-5716

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Supervision=Sunao Kawaguchi text=Ken Motoshiro illustrator=Mariya Arai, A&W
2013年2月号「武士道」

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