江戸料理研究家・うすいはなこ監修
日本人の朝食は江戸の長屋から広がった王道スタイル
炊きたての白いご飯と、味噌汁に漬物。日本人の朝食の王道ともいえるこのスタイルは、世界最大の100万人都市であった江戸の、長屋から広がっていった。
監修・料理=江戸料理研究家 うすいはなこ
料理人、食文化講師。主宰する料理教室やイベントなどに使用する魚を仕入れるため、市場に通い続けたことで、あらためて魚や干物のも素晴らしさを再認識。著書に干物愛にあふれた『干物料理帖』(日東書院本社)がある
1日3回の食事習慣は江戸時代中期から
当時、江戸の町の約70%を占める庶民は長屋に暮らしていた。朝6時、露地口の木戸を開け、朝ごはんの支度にかかる。井戸でくんだ水を水瓶に運び、竈に火をお起こし、ご飯を炊いて汁を温める。朝食は7時頃、昼食は12時頃、夕食は19時頃といった1日3食の食事習慣が定着したのはこの頃で、それまでは午前中と夕方に食事をとる1日2食が一般的だった。
1日3食になった理由は、ひとつに、あんどんに使う菜種油が普及し、夜の活動が増えて朝からお腹がすくようになったこと。もうひとつに、江戸の大半を焼いた「明暦の大火」の復興で江戸に集まった労働者たちは、朝夕2食では体力がもたなかったこと。朝食に合わせて豆腐や納豆などの行商人(棒手振)が長屋の露地の奥まで行き交い、江戸の町は早朝から活気があった。
江戸っ子の朝ごはん例
炊きたてご飯、納豆汁。当時の米はさらっとしたタイプ。味噌汁は、ネギを使った根深汁や細かくたたいた納豆を入れる納豆汁が人気だった。納豆汁は青菜や豆腐も加えれば、タンパク質もとれるごちそうに。 納豆は竹皮を使って三角に折って売られていた。すでにたたいた状態の納豆や豆腐、青菜をセットにした「納豆汁キット」のようなものもあった
1日5合!? 江戸っ子の誇りは白米にあり
8代将軍徳川吉宗の享保の改革により、米の収穫量が格段に上がった上に、江戸は東北や北越から大量の米が流入。精米技術も上がって白いご飯が庶民の日常食になった。農村や地方では麦飯などの雑穀が一般的だった時代、江戸では白米を食べることが「粋」だったのだ。
当時、大人一人が一日に食べるご飯の量は、なんと5合! 肉食禁止で、魚も高級品だった町民たちは、濃い味つけのおかずで山盛りのご飯を食べた。しかし、このような食生活が続くとビタミンB1の欠乏症による脚気が蔓延。原因不明の病として「江戸わずらい」と呼ばれた。
江戸は朝食、京阪神は昼食に。
炊きたてご飯の理由
江戸の長屋では、燃料節約のため、一日分の米は朝一度に炊いてしまうのが一般的。だから家で温かいごはんを食べるのは朝食だけ。残りは木製の飯櫃に移して保存した。昼は冷飯と一品か二品のおかずで、外出する労働者はおにぎりを持参。夜は冷やご飯と漬物程度で、裕福な家庭でも魚を食べるのは月に2回ほどだった。
朝が早い江戸に対し、公家の京都や商人が闊歩する大坂では昼食が最も重視されていた。そのため昼にご飯を炊き、夜と翌日の朝食は冷や飯に。京都の朝粥や奈良の茶粥といった文化はこうして生まれた。
ちなみに天秤棒を肩に担いだの豆腐売りは朝昼夕の1日3回やって来た。下の図は豆腐の売り方の東西比較。納豆は、朝、炊きたてご飯を食べる習慣のない京阪神ではそう好まれなかった。
江戸っ子に人気のおかずとは?
佃煮に代表される江戸の味が生まれたのは江戸時代中期以降。野田や銚子など関東で醤油づくりが盛んになってからのことだ。それまでは、醤油は上方からの高価な下り醤油(薄口)しかなく、味つけの中心は庶民でも手に入りやすい塩、酢、味噌だった。肉体労働の多かった江戸庶民は甘辛い味を好み、白いご飯にもよく合う関東のキリッとした濃口醤油は一気に江戸の町に広がっていく。
その頃のおかずといえば、棒手振が持ってくる豆腐や納豆と、鍋で加熱調理する煮物や汁物が中心。焼き魚が食卓に上がるようになるのは、七輪が登場する江戸後期以降のことだ。それにしても、飽食が叫ばれる現代において、この質素で豊かなおかずがとてもいとおしく思える。
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text: Yukie Masumoto photo: Kenji Itano
Discover Japan 2023年5月号「ニッポンの朝食」