第121代「孝明天皇」
|20人の天皇で読み解く日本史
126代目の天皇が誕生した2019年。今も昔も日本の歴史は天皇がつくってきたといっても過言ではありません。天皇に焦点を当ると、これまでとは違う日本の姿が見えてくるはず。今回は、ペリー来航で世間が困惑する中、攘夷の意志を強く示した、孝明天皇を紹介します。
第121代 孝明天皇(こうめいてんのう)
生没年|1831–1866年
在位|1846(15歳)–1866(36歳)年
父|仁孝(にんこう)天皇
母|正親町雅子(おおぎまちなおこ)
妻|九条夙子(くじょうあさこ)
外国嫌いで知られる天皇
公武合体を目指すも早世
江戸後期は、諸藩が飢饉などで財政難に見舞われたこともあり、幕府の求心力が低下していた。相対的に天皇の権威が増したことで、西国の藩を中心に天皇支持、朝廷支持が叫ばれるようになる。
そうした幕末の動乱期、ペリーが来航すると、日本は日米和親条約を締結。アメリカの要求に屈したかたちでの開国は国辱とされ、国内で攘夷運動が盛んになった。
121代孝明天皇は、「攘夷」の意思を強く示し、一気に政治の表舞台に躍り出る。
幕府の大老・井伊直弼が、天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約に調印したことから、孝明天皇は怒りを表明し、攘夷の意思を示して抵抗した。その後、尊王攘夷派を弾圧した井伊が暗殺されると、幕府は朝廷と協力する公武合体路線を取る。孝明天皇はこれに応じて、妹の和宮を将軍家茂に降嫁させた。攘夷の過激派による横暴が続く中、孝明天皇は疱瘡により急死(一説には暗殺とも)。以後、倒幕運動が急加速していく。
Point1
浦賀に黒船来航
外国に強い嫌悪感を示す
アメリカ総領事ハリスと貿易交渉が行われることとなると、幕府は孝明天皇に日米修好通商条約調印の勅許申請。しかし孝明天皇はこれを見合わせる。朝廷が幕府の要請に応じなかったことは前代未聞だった。ハリスから調印を急かされた幕府は勅許なしで条約に調印。これに激怒した孝明は攘夷を言い出したという。
Point2
互いに朝廷と幕府の
理想的な政治形態を模索
井伊直弼が暗殺され、攘夷派の動きに動揺した幕府は、攘夷を認めざるを得なくなった。さらに攘夷の過激派は、討幕も視野に入れることになる。これは孝明の意に反するものだった。孝明にとって理想的な政治は、朝廷の要望を聞いて幕府が政治を行うことだった。慶喜が将軍となると公武合体を模索するも、志半ばで崩御する。
〈天皇ゆかりの地〉
明治維新で荒廃した京都の
栄華を後世に伝えるために創建
「平安神宮」
平安京を都とした桓武天皇と、平安京有終の天皇である孝明天皇を祭神とする平安神宮。平安遷都1100年を記念し、明治28年に創建された。江戸の幕末の戦乱により京都は衰退し、事実上首都が東京へ移った。このことは京都の人に大きな打撃を与えた。復興への熱意と町おこし事業が結実し、創建に至ったという。
平安神宮
住所|京都府京都市左京区岡崎西天王町97
Tel|075-761-0221
www.heianjingu.or.jp
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supervision: Hirofumi Yamamoto text: Akiko Yamamoto, Mimi Murota illustration: Minoru Tanibata
Discover Japan2019年6月号「天皇と元号から日本再入門」