現存する世界最古の会社《金剛組》
創業1445年の歩み【前編】
日本の社寺建築には驚異的な技術が投入されている。釘・金物に頼らない木組みによって建てられた仏塔が地震をものともせず、何百年もの風雪に耐える事実にはただただ驚かされる。
そんな仕事を1445年前から脈々と受け継いでいるのが、大阪の天王寺区に本拠地を置く金剛組。四天王寺のお抱え大工として西暦578年から続くと聞くと、天恵に浴する順風満帆の集団をイメージするかもしれないが、実際は違っている。金剛組はその歩みを止めざるを得ないような苦境に幾度も立たされ、事業承継の難しさにも向き合ってきた。
しかし現在は、技術者としての誇りを決して失わず、会社としても存続し続けるひとつの着地点にたどり着いている。大阪の堺にある広大な加工センターでは日本が誇る宮大工がいきいきと仕事をしている。社寺建築という日本の伝統文化を守る使命を担う彼らの歴史と歩みを、いまひも解きたい。
金剛組が長く続いたふたつの大きな理由とは……
四天王寺のお抱え大工にはじまる金剛組は、随一の技術を損なうことなく578年から存続。世界に例を見ないその事実には、ふたつの大きな理由があった。金剛組の歴史を振り返りながら歩みを追ってみたい。
初代は太子が招いた大工
再建工事で技術を継承
社寺建築のプロフェッショナル集団・金剛組の歴史は、578年に聖徳太子が、我が国初の官寺として現在の大阪市天王寺区に四天王寺建立を発願したことにはじまる。工事をはじめるにあたって聖徳太子は、百済から3人の工匠「金剛」、「早水」、「永路」を招き、そのうちの一人、金剛を名乗る男こそ金剛組の初代・重光である。重光は593年に四天王寺が完成した後も、四天王寺を護る大工としてこの地に残るよう命じられた。8代目重則の時代になると、四天王寺は重則に宮大工の称号「正大工職」を与えている。「正大工職」を名乗れるのは四天王寺の仕事を任される金剛家の当主のみ。最高峰の技術を有する家職の誉れ高い称号として、現在の41代目が受け継いでいる。
四天王寺の伽藍は創建からこれまで、高さ数十メートルの五重塔でさえ一度たりとも地震で倒れていない。しかし、戦火や自然災害による焼失や倒壊には幾度もあい、そのたびに金剛組が再建の重責を担っている。1801年の落雷による伽藍焼失の際には32代目の喜定が図面と見積書を作成。金剛家にはこうした図面や見積書のほかに、喜定の遺言書も伝わっている。遺言書には「職家心得之事」と書かれた16の教えもしたためられている。また長さ3mに及ぶ巻物状の系図が残されている点も、金剛家の歩みを重んじてきた歴史が垣間見える。
1801年の落雷以降、都合4度も伽藍再建の機会が訪れている。1945年の大阪大空襲で焼失した五重塔再建を除けば、そのほとんどを金剛組が担当。数十年にわたる工期を要する伽藍の再建を何度も任されたことが、結果的に高度な技術の継承につながった。
後継ぎは血脈ではなく実力
昭和の女棟梁で時代を拓く
金剛家が長きにわたって絶えなかったのは、家職の承継を血脈に頼らなかったことにあるのではないだろうか。後継ぎがなかった場合、またはふさわしくなかった場合、腕のいい宮大工を養子に迎えるなどして後を継がせた。昭和初期には、37代当主治一の妻・よしゑが、大工という男社会の中で38代目に就任。頭抜けた宮大工として名を馳せた治一は経営には向かず、明治の神仏分離令により寺領を失った四天王寺からの仕事は減少、四天王寺以外への営業も不得手であったことから経営悪化に心を病み、自ら命を絶った。経営の悪化、当主自害の苦境の中立ち上がったよしゑを、金剛組の屋台骨である宮大工たちは支え、よしゑは仕事先の開拓に専念。奮起するよしゑに四天王寺は室戸台風で倒壊した五重塔の再建を託し、1940年、女棟梁38代目・よしゑが率いる金剛組が見事に再建の偉業を成し遂げている。
この頃から、技術者は技術に専念、経営は経営に適した人間が担う組織が萌芽。2005年に深刻な経営危機に陥ると、髙松建設の支援で傘下に入り、現在、1445年続く金剛家(現在第41世当主)を象徴として、髙松建設のバックアップを得た経営陣、および金剛家に仕えてきた専属宮大工集団とが三位一体となって次の100年に向かっている。
<金剛組の歩み>
578年
聖徳太子が四天王寺建立を発願。百済から3人の工匠を日本に招く。そのうちの一人が金剛組の初代・金剛重光。この年を金剛組の創業年としている
593年
四天王寺建立。金剛重光が以後もこの地にとどまり四天王寺を護る大役を任される
961〜963年
金剛組8代・重則が「安居の社」建立の際に、四天王寺を護る宮大工の称号「正大工職(しょうだいくしょく)」を四天王寺から賜る
1345〜1349年
焼失した四天王寺諸伽藍再興の仕事を請け負う
1576年
石山寺の合戦により四天王寺炎上。支院の勝鬘院も焼失してしまう
1597年
豊臣秀吉が勝鬘院多宝塔再建。雷除けの銅札には総棟梁「金剛匠」と刻まれている
1614年
大坂冬の陣の戦禍に巻き込まれ四天王寺は伽藍を焼失
1617年
金剛組25代・是則が四天王寺再建の仕事を任される
1703年
幕府の統制下、大工が縦割り組織として編成される中、独立した四天王寺付けの大工になるべく嘆願し認められる
1801年
落雷により四天王寺の伽藍が焼失
1802年
金剛組32代・喜定が四天王寺再建の命を受ける(この時喜定が書いた金堂の20分の1の図や、北大門、僧坊などの見積書は現存)。金剛組の教えを記した「遺言書」を書き残す。喜定の「遺言書」には金剛家が守り通してきた16の教え「職家心得之事」も含まれている
1811〜1814年
金剛組32代(権大工)是氏が四天王寺五重塔、太子殿、唐門三ケ所などを再建
1868年
明治政府が神仏分離令を布告。四天王寺は多くの寺領を失う
1932年
金剛組37代・治一逝去にともない、妻よしゑが金剛組の歴史上初となる女棟梁(正大工職)となる
1934年
昭和の三大台風に数えられ京阪神に甚大な被害をもたらした室戸台風により四天王寺五重塔倒壊。金剛組38代・よしゑが再建を託される
1940年
四天王寺五重塔再建
1945年
大阪大空襲により四天王寺は五重塔を含む主要な伽藍を失う
1955年
金剛建築部から株式会社金剛組に改組
2005年
倒産の危機に直面、髙松建設が支援を名乗り出る
2006年
営業権を譲渡された髙松建設の中から社長を選任。新しい金剛組として再出発を切る
2011年
金剛組で1600年代頃から受け継がれてきた「四天王寺手斧始め式」が大阪市無形民俗文化財に指定される
読了ライン
text: Mayumi Furuichi photo: Toshihiko Takenaka
Discover Japan 2023年6月号「愛されるブランドのつくり方。」