アマン創業者 エイドリアン・ゼッカが語る日本の魅力とは?
前編|長年の夢を叶えた旅館《Azumi Setoda》
秋が深まりはじめた2024年11月初旬。エイドリアン・ゼッカさんの来日に合わせ、旅館「Azumi Setoda」に、ホテルジャーナリスト・せきねきょうこさんが向かった。この貴重な機会に91歳のレジェンドが語った、日本への想いや人生観とは?
エイドリアン・ゼッカ
1933年生まれ。ラグジュアリーリゾートの最高峰「アマン」の創業者。10年ほど前にアマンを完全に離れ、自身の日本第1号となる旅館「Azumi Setoda」を共同創業。現在はリゾート開発の会社「Azotels」会長。ベトナムで「Azerai」ブランドも展開中
インタビュー・文=せきねきょうこ
ホテルジャーナリスト。フランス・アンジェで大学生活を送り、スイスの山岳リゾート地で観光案内所勤務中に、3年間のホテル暮らしを体験。1994年から現職。連載・著書多数。アドバイザー、コンサルタントも。www.kyokosekine.com
ジャーナリスト、日本居住を経て
伝説のホテリエへ
エイドリアン・ゼッカさんがホテリエとなり、プーケット島で小規模なリゾート「アマンプリ」を開業させたのが1988年のこと。ここを皮切りに「アマン」がスタートした。以来、次々と同ブランドのリゾートを世界各国の秘境や景勝地につくり、ジェットセッターやセレブリティをことごとく魅了し続けた。その功績からラグジュアリーリゾートの概念を変えたとまでいわれている。
そんなホテリエが真に望んでいたのは日本での旅館の開業だ。日本旅館の“もてなし”を世界に発信するスタートが2021年に開業した「Azumi Setoda」であった。
ただ、レジェンドと呼ばれるゼッカさんについて、詳しくは知らない人もいるだろう。そこで、まずゼッカさんの歩んだ特別な人生を少しだけ振り返ろう。弱冠20歳でアメリカのコロンビア大学大学院を卒業した後、アメリカのニュース雑誌『TIME』に入社。1950年代、ジャーナリストとして、キューバや日本、インド、フィリピンに赴任。さらに数年にわたり特派員として日本に渡り、東京居住の経験もある。
リゾートをつくる場所を見出す目の確かさは、世界各地をめぐるうちに磨かれたのかもしれない。特に日本に魅了されたゼッカさんは、1956年から東京に約2年住み、のちに個人で出版社を起業した後も、日本の魅力にこだわり続けたという。
心に強く秘めた、日本旅館への想い
日本居住時には各地に足をのばし、また、三浦半島に別荘をかまえ、週末は頻繁に通ったそうだ。その土地に根づいた文化や伝統を肌で感じる「旅館」により深く魅了され、名旅館との交流もできていった。やがてホテリエへと転じたゼッカさんには、当時から日本旅館のような小規模で細やかなもてなしがあり、地域のカルチャーが生きる旅館を自身の手でつくりたいという、心に強く秘めた想いがあったのである。
そんなゼッカさんの長年の夢をかなえた初の日本旅館が、瀬戸内海のしまなみ海道沿いに浮かぶレモンの島・生口島に開業したAzumi Setodaだ。現代に望まれる新しい旅館スタイルとして、また伝統や文化に敬意を払い“日本旅館の再定義に挑戦したプロジェクト第1弾”となった。
築140年以上の貴重な建築意匠を継承し、デザインは、日本建築に精通する「六角屋」三浦史朗さんによるもので、躯体を残し美しく外観を復元、内装は完全リニューアルされた。ゼッカさんは、Azumi Setodaについて、旅館のもつ家庭的な温もりや、豊かさの再解釈をゼッカ流に昇華させたと語る。またAzumi Setodaにゼッカさんが求めるものは、島全体の活性化にもあった。開業して約3年半経ったいま瀬戸田の街を訪れてみると、その想いが着実に実りつつあるのが感じられる。
そしてプロジェクトの舞台は瀬戸田にとどまらないという。数々のプロジェクトを抱えているゼッカさんだが、アマン時代からともに開発に関わってきた「Azumi Japan」の早瀬文智さんとともに、現在もいくつかの計画が国内で進行中で、次は東北地方で開業を予定しているという。
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日本の魅力や人間観にせまる
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text: Kyoko Sekine photo: Atsushi Yamahira
2025年1月号「ニッポンのいいもの美味いもの」