TRADITION

山陰の麒麟児、
山中鹿之助(幸盛)
「戦国武将名鑑」

2021.5.25
山陰の麒麟児、<br>山中鹿之助(幸盛)<br><small>「戦国武将名鑑」</small>

15世紀末から16世紀末、日本は戦乱の時代。室町幕府が完全に失墜し、守護大名に代わって全国で戦国大名が勢力を増した。日本史上の中でも戦国時代は、現代においてもなお伝説的な武将が多く存在している。人気の武将を図鑑形式で紹介する「戦国武将名鑑」。今回は、尼子氏再興に尽力した山陰の麒麟児、山中鹿介(やまなかしかのすけ)です。

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生没年
1545?~1578年
Place
出雲国(島根県東部)
Data
由来|山中氏(宇多源氏佐々木氏流)
改名|山中甚次郎→亀井甚次郎→山中鹿介幸盛
正室|亀井秀綱の娘

一ツ橋

山陰地方の武将の筆頭といえる存在が山中鹿介である。尼子氏の家臣として活躍し、“山陰の麒麟児”の異名をとり、存命中から「楠木正成より勝る」と言われたほど卓越した武勇のセンスをもっていた。三日月の前立てに、鹿の角の脇立てをつけた冑を身につけた姿で知られ、美男子でもあったとされる。鹿介は、生涯を主君の尼子氏のために捧げたといってもいい。月山富田城の戦いで尼子氏が一時的に滅亡した後も、再興のために尽力。再興を祈念し、三日月に向かって「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と唱えたといわれている。その後、1578年に毛利輝元と尼子氏が争った上月城の戦いで捕らえられて殺されてしまうが、主君に忠誠を誓った人物として講談で語られたため人々の人気を得るようになった。

願わくば我に七難八苦を与えたまえ

大きな仕事を成し遂げるためには、望んで苦しいことに立ち向かうべきだという考え。天才的なセンスをもっていた鹿介だが、日々の鍛錬を欠かさなかった。

年表

1545 出雲国能義郡新宿谷に生まれたとされている
1556 尼子義久に仕える
1560 伯耆国高尾城を攻略
1565 毛利元就が尼子義久の居城である月山富田城を攻撃。鹿介は毛利軍の吉川元春と戦い撃退
1566 尼子氏が滅亡
1568 尼子氏を再興するべく、尼子誠久の遺児・勝久を還俗させ擁立
1569 月山富田城を攻める
1572 織田信長に謁見し、中国攻めの先方となることを誓ったとされる
1578 備中阿井の渡しで横死

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Supervision=Sunao Kawaguchi text=Ken Motoshiro illustrator=Mariya Arai, A&W
2013年2月号「武士道」

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