「種子島」鉄砲とハサミが超最先端のルーツ?!
種子島に伝来した鉄砲は、当時の“最先端”に挑んだ鍛冶職人の功績により、瞬く間に日本中に伝播。世は戦国時代、武器は刀から鉄砲へ代わり、戦法も変遷していく。《ロケットと鉄砲、時代の最先端をゆく種子島》の中編。
我が国における鉄砲の歴史は、1543年8月、種子島の門倉岬に1隻の明国船が漂着したことにはじまる。禅僧、南浦文之が記した『鉄炮記』によると、14代当主種子島時尭はこの船に乗っていたポルトガル人から2挺の鉄砲を購入。額は現在の価値にして1億円相当であったと伝えられている。
時尭は直ちに鍛冶屋を集め、鉄砲を分解して模作を試みるが、いずれも難航。そこで腕利きと評判の鍛冶職人、八板金兵衛清定に命じ、鉄砲の模造に取り掛からせた。さすがの金兵衛も苦心し、課題を抱えながらも、なんとか国産第1号をつくり上げる。
そして1544年3月、再び中国船が漂来し、乗船していたポルトガルの鍛冶師に正式な鉄砲工法を学んだ金兵衛によって、国産銃が完成。年内に数十挺を製造したという。
実は国産第1号の製作には、牧瀬今兵衛という協力者がいた。この人物こそ、鉄砲鍛冶を現代に継承する「種子鋏」の祖とされる。種子鋏の形状は鉄砲とともに伝来したといわれ、それ以前の日本には和鋏しか存在していない。
その技術は今兵衛の子孫、牧瀬義文さんへ受け継がれていたが、昨年惜しくも他界。しかし義文さんの教えを受けた梅木昌二さんが伝承者となり、伝統的な種子鋏はこの地で生き続ける。
文=大森菜央 写真=吉田素子
2017年7月号 特集「この夏、島へ行きたい理由。」