国宝《待庵》の建築の秘密
千利休の理想が凝縮された
現存最古の茶室を柏井壽さんと探る
山崎の合戦の際に、豊臣秀吉の命で千利休がつくったと伝わる茶室「待庵(たいあん)」。数寄屋建築の原点といわれるわずか2畳の茶室とは? 利休が手掛けたという唯一の現存茶室を作家の柏井壽さんが訪ねた。
訪ねる人・文
柏井 壽
1952年、京都市生まれ。京都市北区で歯科医院を開業するかたわら、京都にまつわるエッセイや『鴨川食堂』(小学館)シリーズといった小説を執筆。幼少の頃から茶道に親しむ
極限まで削ぎ落とされた
2畳の詫び数寄の空間
京都と言えばお茶。お茶と言えば抹茶。鮮やかな緑色の抹茶は京都のイメージにぴったりですね。
とはいえ、本来の抹茶、薄茶や濃茶を京都で味わう機会は決して多くはないと思います。
お茶と言いながら、抹茶スイーツばかりがもてはやされている昨今ですが、千利休の生誕500年ということもあり、そろそろ茶の湯、茶道の本質に目を向ける、いい機会ではないかと思います。
抹茶と言えば真っ先に頭に浮かぶのが作法。いかにも面倒臭く見える作法が、茶の湯のハードルを高くしているのは否めませんね。
コーヒーにしても、紅茶にしても、中国茶でも、道と結び付けるほどの作法は、ほとんどありません。なぜ日本のお茶だけが、こんな作法を編み出したのでしょう。
まずはその作法のステージとなる、茶室に着目してみましょう。
そもそも茶室とは何でしょうか。
——茶会に用いる室。古くは茶湯座敷・数寄屋・囲などといい、茶室と呼ぶようになったのは江戸時代以後。四畳半を基本とし、三畳・二畳、あるいは台目畳を用いて最小一畳台目まである。四畳半以下を小間、以上を広間といい、四畳半は両方を兼ねる。——
『広辞苑 第七版』の茶室の項目には、こう書かれています。つまりは、ただ茶を飲むためだけでなく、茶会を催すときに使った部屋のことのようです。
昔の人は、お茶を飲む会を催し、そのためだけの部屋をつくったわけです。
日本というのは狭い島国ですから、土地も家も欧米などと比べるまでもなく、広いスペースがあるわけではありません。なのに、茶会にしか使わない部屋をわざわざつくる。不思議ですね。
先にも書きましたが、コーヒーや紅茶にこんな部屋はありません。なぜ日本のお茶だけが、こんな部屋を必要としたのでしょうか。
その謎を解くために向かったのは、京都市内から西南方向にある、山崎という場所です。
山崎というのは、淀川の近く、大阪府との府県境、天王山のふもとにある町で、JR山崎駅の前にある「妙喜庵」というお寺を目指しているのです。
お目当ては「待庵」という茶室。国宝にも指定されている、稀少なものなのです。
いったい日本にどれほど多くの茶室があるか数えられないほどですが、その中で国宝に指定されているのはたった3つしかありません。
「大徳寺 龍光院」の「密庵」、かつては「建仁寺 正伝院」にあり、いまは犬山城下「有楽苑」にある「如庵」、そして妙喜庵の待庵がそれで、国宝茶席三名席とも呼ばれています。
さらに言えば、千利休がつくったと言われているのは、この待庵だけだというのですから、いかに稀少な茶室かということがわかります。
JR山崎駅までは、京都駅から20分ほどです。そしてその駅の真ん前に、待庵を擁する妙喜庵が建っています。
改札口を出て左へ、迷うことなく妙喜庵の前までたどり、数段の石段を上って玄関に立ちます。
ここに彼の待庵があるのだと思うと、胸が高鳴ります。
妙喜庵は山号を「豊興山」と言い、「妙喜禅庵」とも称します。玄関先で出迎えてくださったご住職に案内を請い、お寺の中を拝観します。
上がり込んでお堂に入るとすぐ、よく手入れされた、こぢんまりした庭が目に飛び込んできます。
京都市内の有名寺院に比べると、なんとも控えめで、その佇まいにホッと心が安らぎます。
陽当たりのいい縁側の左奥に潜んでいるのが待庵。まずはこの縁側に座り、ご住職の説明を聴きながら、その姿、位置関係をつぶさにします。
これがあの待庵なのか。外観だけでもその迫力が伝わってきます。
重要文化財に指定されている書院の南側に接して、茶室が建っています。
外から見上げると、屋根は切妻づくりのこけら葺きで、瀟洒、という言葉が浮かんできます。
いよいよ茶室の中へ、といきたいところですが、国宝ですから、残念ながら茶室の中へ入ることはできません。躙口横の窓から中を拝見します。
広さはわずか2畳しかありません。それまでは4畳半が普通だったといわれる茶室を、利休は半分の広さにしたのです。
もちろん照明などは点いていませんから、薄暗く小さな茶室の中に目を凝らします。
こういうときは、想像力を駆使して、中に入り込んだ気持ちになるのが一番です。
躙口はほかの茶室に比べると、かなり大きめです。ここから入ってみましょう。
中はどんなに狭いかと思いきや、存外広く感じます。天井の高さは1m80㎝。大人の背丈ギリギリですが、当時は普通だったのでしょう。
部屋の隅には主人が茶を点てる炉が切られています。2畳しかない上に、利休はかなり大柄な人だったといいますから、ここで利休が茶を点てていれば、客はかなりの圧迫感を覚えたことでしょう。
窓があります。淀川の葦を下地に使ったという窓は、かなり大きく感じます。利休はここで、はじめて窓をつくり、茶室に微妙な光を採り込んだといわれています。
その薄明りと、土でつくられた錆壁、練り込まれた長苆が、いやが上にも侘びた風情を醸します。
床の間を見てみましょう。
床の幅はかなり狭くつくられているように見受けます。しかし、角の柱が見えないよう、土壁に塗り込むことで空間に広がりが生まれています。
そしてこの床の間の最大の特徴は、床飾りにあったといわれています。
それまでは、中国大陸から渡来した、絢爛豪華な茶道具などを、仰々しく飾るのが常識とされていたのですが、利休は、簡素な掛軸や竹の花入れをさりげなく掛け、侘びた花を生けたのです。
見上げてみると、掛込天井になっていて、空間に広がりをもたせています。天井板は北山杉でしょうか。杉の野根板を使って、野にあるかのような風情を醸し出しています。
そして、あちこちに使われた竹が、侘びを強調しているように見えます。それは床柱も同じで、天井板と同じ北山杉の丸太に装飾を施さず、そのまま使うことで、素朴さを演出しているのです。
この茶室・待庵の狭い空間の随所に施された、創意あふれる工夫は、利休が侘茶を極める、大きな足掛かりになったように思います。
天王山で戦を続け、ここ山崎の地に陣を敷いた秀吉は、陣中に利休を招き茶室をつくらせました。利休はそこで秀吉に茶を点て、もてなしたといわれています。その後、茶室はいったん解体され、妙喜庵に移築されたと伝わっています。それがこの待庵なのです。
待庵という狭い空間で、一碗の茶を通して、利休と秀吉はきっと濃密な会話を交わしただろうと思います。
秀吉は戦果を誇り、あるいは時に自省し、展望を語ったことでしょう。それに対して利休はひょっとすると、教誨の言葉を掛けていたのかもしれません。そのために、外界と隔絶した、別空間としての茶室という存在が、必要だったのではないでしょうか。
待庵の建築構造をひも解く
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妙喜庵「待庵」
住所|京都府乙訓郡大山崎町大山崎竜光56
Tel|075-956-0103
拝観可能日時|寺用のない日曜午前中(10:30または11:30)
※拝観は要予約。拝観希望日の1カ月前までに往復はがきにて申し込みを。希望の日程(2〜3日候補日を書いてもよい)、代表者の住所、名前、電話番号、人数(1〜最大10名まで。高校生以下のみは不可)を記入
拝観料|1名1000円
photo: Ko Miyaji plan: A2WORKS
Discover Japan 2022年11月号「京都を味わう旅へ」