兵庫《姫路城》
黒田官兵衛から譲られた
中国攻略の拠点
|豊臣兄弟ゆかりの城
これまで秀吉が主役になることはあったが、2026年はその弟・秀長が脚光を浴び、大河ドラマで主役を務めている。そこで、歴史著述家である上永哲矢さん監修のもと、下層身分から天下人へと上り詰めた豊臣兄弟たちの活躍を追いながら、ゆかりの「城」を解説。今回は、兵庫県姫路にある「姫路城」をご紹介!
上永哲矢(うえなが てつや)
歴史著述家/紀行作家。各種雑誌やウェブサイトに歴史コラムを寄稿。著書に『戦国武将を癒やした温泉』(イカロス出版/山と溪谷社)、『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)など。
《1577〜1580年》
信長の命令を受け中国地方の攻略を開始

写真提供=姫路市
信長が畿内での支配権をほぼ確立させたのは1577(天正5)年頃のことだ。以後、信長は重臣たちを各方面へ派遣し、それぞれに平定を命じた。畿内には明智光秀、北陸に柴田勝家、関東に滝川一益。そして西の中国地方の平定を任されたのが秀吉だった。

天守の内部
約400年前の姿をほぼそのまま残す姫路城。現存天守では最大かつ最も高い大天守と、3つの小天守が渡櫓で結ばれた連立式天守。外観はもちろん、内部まで見学できる。また、城内には秀吉の時代の石垣も一部残存しており、江戸時代の石垣との比較も興味深い
写真提供=姫路市
そこへ、いち早く秀吉に接近してきて、味方についたのが播磨(現在の兵庫県南西部)の豪族・黒田孝高(官兵衛)だ。彼は居城の姫路城を秀吉に明け渡し、中国地方平定の協力を申し出た。まさに渡りに船。秀吉は姫路城を拠点に定め、軍を二手に分けて侵攻していく。秀吉率いる本隊は播磨攻略を続け、秀長は北の但馬(現在の兵庫県北部)に進軍した。こうして秀長は羽柴軍の別動隊を率いることになったのだ。

なお、この中国攻めの最中、秀吉は黒田孝高に送った書状の中で「お前は弟の小一郎(秀長)同然に心安く思っている」と書いた。官兵衛を喜ばせるためとはいえ、弟への信頼も匂わせる内容。ともに秀吉にとって頼もしい両名だったと見られる。
さて、その姫路城だが、戦国時代までは小規模な城砦だったと推測される。それを秀吉が近世城郭に改修。関ヶ原合戦後、姫路領主となった池田輝政がさらに大改修し、外観も白漆喰で塗り固めるなどして現在の姿になった。
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姫路城
住所|兵庫県姫路市本町68
Tel|079-285-1146
開城時間|9:00~17:00(閉門16:00) ※季節により変動あり
休城日|12月29日~30日
料金|2500円
www.city.himeji.lg.jp/castle
text: Tetsuya Uenaga
2026年4月号「地域の“旬”感へ」


































