TRADITION

愛知《清洲城》
羽柴秀吉VS柴田勝家の主導権争いの舞台
|豊臣兄弟ゆかりの城

2026.6.6
愛知《清洲城》<br>羽柴秀吉VS柴田勝家の主導権争いの舞台<br>|豊臣兄弟ゆかりの城

これまで秀吉が主役になることはあったが、2026年はその弟・秀長が脚光を浴び、大河ドラマで主役を務めている。そこで、歴史著述家である上永哲矢さん監修のもと、下層身分から天下人へと上り詰めた豊臣兄弟たちの活躍を追いながら、ゆかりの「城」を解説。今回は、愛知県清須市にある「清洲城きよすじょう」をご紹介!

上永哲矢(うえなが てつや)
歴史著述家/紀行作家。各種雑誌やウェブサイトに歴史コラムを寄稿。著書に『戦国武将を癒やした温泉』(イカロス出版/山と溪谷社)、『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)など。

《1582年》
秀吉の天下人への道を開いた
運命の「清須会議」

尾張の守護代・織田の本家の居城。分家であった織田信秀の子・信長が本拠地とし、小牧山へ移るまで10年ほど居住。現在は鉄筋コンクリート造の模擬天守が建つ

備中高松城攻めの最中「信長討たれる」との急報を受けた秀吉。備中高松城を降伏・開城させると、毛利氏と和議を結び、直ちに畿内へ引き返した。「中国大返し」である。そして11日後、京都の西、山崎・天王山の地で謀反人・明智光秀と決戦(山崎の戦い)に及ぶ。1582(天正10)年6月13日のことである。「上さま(信長)の敵討ち」を名目に光秀より多くの兵を集めることに成功した秀吉は、見事にその「天王山」を制した。

そして6月27日、秀吉を含めた織田家重臣らが清洲城(清須城とも記す)に集まり、今後の織田家をいかにすべきかが話し合われた。「本能寺の変」では信長だけでなく、長男で家督を継いでいた織田信忠までが光秀に討たれたため、誰を後継者とすべきか決める必要があったからだ。ここでは通説に従い、経過を記しておきたい。

天主閣では常設展示が行われており、清須の歴史や武将たちと清須の関わりについて知ることができる

後継者の座は信長の次男・信雄と三男・信孝とで争われ、まず柴田勝家は信孝を推した。しかし、秀吉は信忠の遺児・三法師(後の秀信)を後継者とすべきと主張する。三法師はまだ3歳の幼子だったため議論が紛糾したが、信雄と信孝は三法師の後見役になるというかたちで決着した。

結局は、光秀討伐を果たした秀吉の発言力が勝り、政治の主導権を秀吉が担うかたちになった。ここもまた需要な歴史の舞台だ。

「清須会議」に参加した4人の武将

羽柴秀吉(1537-1598)
山崎の戦いで信長の敵・明智光秀を討ち、一躍重臣たちのトップの座についた。清須会議の真の役割は後継者の決定というより、秀吉が織田家での主導権を完全掌握する政争の場だったという見方が強い。

柴田勝家(1522-1583)
信長に長年仕えてきた宿老で信長存命中は重臣たちの筆頭的存在。そのため秀吉の下につくことをよしとしなかった。筋目から三法師が跡継ぎであることも理解していたが、あまりに幼いために秀吉と意見を違えたと思われる。

丹羽長秀(1535-1585)
勝家と並ぶ織田家の重臣。「本能寺の変」の直前までは四国攻めの準備中で、織田信孝の補佐役として摂津(現在の大阪府)にいた。秀吉の引き揚げを待ち、合流して明智光秀を討ったため、清須会議でも秀吉に賛同した。

池田恒興(1536-1584)
池田の母・養徳院は織田信長の乳母を務め、信長とは「乳兄弟」の関係にあったことから重用されていた。信長から秀吉の備中高松城攻めへの加勢を命じられたが、その準備中に本能寺の変が起こり、秀吉と行動をともにした。

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清洲城
住所|愛知県清須市朝日城屋敷1-1
Tel|052-409-7330
開城時間|9:00~16:30
休城日|月曜(祝日の場合は翌平日休)、12月29日〜31日
※桜の花見期間は開館
料金|400円
www.city.kiyosu.aichi.jp

text: Tetsuya Uenaga
2026年4月号「地域の“旬”感へ」

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