《水木しげるの妖怪 百鬼夜行展》
この夏、妖怪でひんやり。
3|水木しげると妖怪の関係
“目に見えない世界”に魅了され、生涯で描いた日本妖怪は約1000体! 妖怪マンガの第一人者であり、妖怪研究家でもあった水木氏にとって、妖怪とはどんな存在だったのだろうか? 水木しげる氏の長女・原口尚子さんにうかがいました。
〈お話をうかがった方〉
水木プロダクション 取締役
原口尚子(はらぐち なおこ)さん
水木しげる氏の長女。今回の展覧会ではモノクロ、カラーを合わせて100点以上の原画が展示されるが、見る者の想像力をよりかき立てるモノクロ画のほうが好きだという。
水木しげるプロフィール
1922年 3月8日生まれ。鳥取県境港市で育つ。太平洋戦争時、激戦地であるラバウルに出征、爆撃を受け左腕を失う。復員後に紙芝居作家となり、その後マンガ家に転向。代表作『ゲゲゲの鬼太郎』、『河童の三平』、『悪魔くん』など。
1965年 『別冊少年マガジン』に発表した『テレビくん』で第6回講談社児童まんが賞受賞
1991年 紫綬褒章受賞
2003年 旭日小綬章受賞。故郷の鳥取県境港市に「水木しげる記念館」が開館
2007年 『のんのんばあとオレ』が、アングレーム国際漫画フェスティバル最優秀コミック賞受賞
2009年 『総員玉砕せよ!』が、アングレーム国際漫画フェスティバル遺産賞受賞
2010年 文化功労者選出
2012年 『総員玉砕せよ!』が、ウィル・アイズナー賞、最優秀アジア作品賞受賞
2015-16年 『昭和史』が、ウィル・アイズナー賞、最優秀アジア作品賞受賞
2015年 11月30日 死去
水木しげる氏の妖怪マンガの原点とは?
水木氏が妖怪に興味をもつようになったのは小学校入学前。近所に住む“のんのんばあ”から聞く、お化けやあの世の話がきっかけだった。
「のんのんばあに連れられてよく足を運んだ近所の寺には、仏教の死後世界を描いた六道絵があって、『極楽はおもしろくない。地獄はおもしろい』と、地獄絵図ばかりを何時間も眺めていたそうです」
水木氏は戦後、復員して紙芝居作家となり、その後、マンガ家に転向。1965年からは週刊少年誌でマンガの連載がスタート。同じ頃、別の週刊少年誌からも連載を依頼され、そこで発表しはじめたのが妖怪画だった。水木氏にとって、妖怪をはじめ目に見えない世界は、永遠のテーマ。戦中戦後の厳しい時代でも、仕事がうまくいっていないときでも、変わらず関心をもち続けていたことがうかがえる。
「妖怪画の連載に備えるために、神保町の古本屋に行って、江戸時代の和とじ本や大正時代の民俗学の本など、飴色になっているような古い本をたくさん買ってきて、それを資料に描いていました」
愛しさをもって集め続けた
"妖怪コレクター"
水木氏が生涯で描いた日本妖怪は約1000体。
「水木にとって妖怪は、いとしさをもってコレクションするもの。伝承や昔の絵師が描いたものをひとつずつ集めて、目に見えない存在をかたちにしていました。60歳を過ぎてからは、世界の妖怪もコレクションするように。水木によると、海外で日本の妖怪について話をすると、同じような性質の妖怪がいるそうです。そこから、名前は違っても、世界の妖怪は1000体に集約されるという、『妖怪1000体説』にたどり着いたと言っていました」
資料には、江戸の絵師・鳥山石燕(とりやませきえん)の『画図百鬼夜行』のように、妖怪の姿を絵で表しているものもあれば、昭和の民俗学者・柳田國男の『妖怪談義』のように、文章のみで説明しているものもある。前者の場合は、妖怪の姿はそのままに、背景を加えることでよりわかりやすい絵に仕上げ、後者の場合は、妖怪と対話しながらその存在にかたちを与えていった。
「水木はいつも『妖怪は創作しちゃいけない』と言っていました。妖怪は、どうして生まれたのかという、背景を含めての存在なので、昔の人が感じたものをそのまま表現することを意識していました。妖怪に対する、つまり妖怪を生み出した昔の人たちに対するリスペクトですね」
シンプルな絵柄の人物に対して、緻密に描き込まれた背景画を見れば、妖怪がその土地で生まれた理由、そして当時の人々の暮らしぶりも見えてくる。
「今回の展覧会は、水木がどんな風に妖怪画を制作したのか、その頭の中、心の中を明らかにしてくれる、いままでになかった展示です。妖怪だけでなく、その背景も含めて、ぜひ感じていただきたいと思います」
企画プロデューサーに聞く!
百鬼夜行展の楽しみ方
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text: Miyu Narita illustration:©mizukipro
2022年8月「美味しい夏へ出掛けよう!」