《LeTAO/ルタオ》の新たな挑戦
「旧小樽倉庫」が文化観光拠点に生まれ変わる!①
|小樽のまちづくり

江戸時代、莫大な富を生んだニシン漁場として栄え、明治期の官営幌内鉄道開通などを経て繁栄した北海道・小樽。いまも多くの人や物が行き交う観光商業都市で、歴史的建造物を守りつつ現代に生かすまちづくりが進行中。そのひとつが、2024年10月に南側が「ルタオ運河プラザ店」として生まれ変わった「旧小樽倉庫」だ。
洋菓子店「ルタオ」の新たな挑戦とは?

JR小樽駅から徒歩約10分、運河に沿って走る道道の交差点に建つのが「旧小樽倉庫」だ。1890年~94年にかけて建てられた営業用倉庫で、増築を重ねふたつの中庭を囲む大倉庫となったという。
1985年には「小樽市指定歴史的建造物 第13号 旧小樽倉庫」として登録された。市は1990年に旧小樽倉庫の南側を活用し、小樽市観光物産プラザ(通称:運河プラザ)を開設。当プラザは、小樽観光協会が指定管理者として運営を担い、観光案内所や休憩所、物販・喫茶コーナーを営業するほか、イベントや展示会に使える場所として市民に愛されてきた。

その後、第3号ふ頭の再開発に伴い、運河プラザの機能は新たに開設された「小樽国際インフォメーションセンター」に移転することとなり、2024年3月末に一度幕を下ろした。
市はその後の再活用にあたり、公募型プロポーザル方式により民間事業者を募集し貸付事業者の選定を行った。これに挙手したのが「小樽洋菓子舗ルタオ」を運営する「ケイシイシイ」だ。こうして同年10月、旧小樽倉庫の南側は「ルタオ運河プラザ店」として再スタートを切った。

小樽市民が主役のまちづくりの文化

誰もが寛げるフリースペース
地元民や観光客の誰もが使え、テイクアウトした商品も楽しむことができるフリースペース。ルタオのフラッグシップスイーツ「ドゥーブルフロマージュ」をかたどったソファなどが並び、市民の憩いの場に。一番庫奥には授乳室も
「北海道の心臓みたいな都会である」。小樽の街をこう表現したのは、青春時代を小樽で過ごした小説家・小林多喜二だ。
小樽は江戸後期からニシン漁場として栄え、漁夫たちの豪奢な生活ぶりは、鰊御殿や番屋としていまに伝えられる。明治期に入り、小樽が“北海道の心臓”となる契機は国策として開発された幌内(現:三笠市)と小樽(手宮)を結ぶ官営幌内鉄道の開通だ。1882年に全線開通したこの鉄道は、北海道の内陸部から良質な石炭を本州へ送り出し、それらは日本の近代化の原動力となる一方、本州から運ばれてきたさまざまな物資は道内に供給され、小樽は物流の拠点として発展していった。

中庭に面した物販スペースの壁際にあえて空間をつくり、通路にすると同時に北海道で活躍するアーティストの作品を展示するアートギャラリーを設けた。絵画や書といった多様な作家とのコラボレーションも視野に入れている
海岸線には物資を保管する石造倉庫が建ち並び、ゴールド・ラッシュさながらに仕事を求める人々が殺到。鉄道と港の整備によって資源の物流拠点なった小樽には、多くの商社や金融機関が進出し、25もの銀行が存在したという。
第二次大戦後には、石炭から石油へのエネルギーの転換や港湾の市場が太平洋側に移行するのに伴い、小樽港では取り扱い貨物が減少。そこで市は、車社会への対応や経済の再生を目指し、運河を埋め立て道路を建設する都市計画を決定。次々に壊されはじめた石造倉庫を目の当たりにした市民から、先人の貴重な遺産である運河を守ろうという保存運動が起こった。

その後、約10年にわたる大論争の結果、市は極めて異例の都市計画変更を決断し、運河の半分を埋め立て水辺の散策路として整備。こうして国内外から観光客が絶えない「小樽運河」の風景ができた。
さらに、運河の保存運動に端を発して市民の中に醸成された「歴史に学び、歴史を生かす」という意識は受け継がれ、市民が主役の「民の力」によるまちづくりの文化が、現在の小樽の街をかたちづくっているのだ。
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text: Tomoko Homma photo: Kenji Okazaki
2025年3月号「ニッポンのまちづくり最前線」