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もうひとつの萩焼。
山口県長門市・深川萩【前編】

2020.12.1
もうひとつの萩焼。<br>山口県長門市・深川萩【前編】

山口県長門市、長門湯本の街づくりに端を発し、県全体の魅力のとりこになった編集部。今回から2回の連載で掘り下げるテーマは「萩焼」。

「一楽、二萩、三唐津」といわれ、茶陶の三傑とも呼べる存在です。産地としては山口県萩市が知られますが、となりの長門市には、深川萩と呼ばれる萩焼の職人たちが住まう地があります。長門湯本温泉からほど近くの山間の地、地元では三ノ瀬(そうのせ)と呼ばれる谷では、職人たちがいまもその手から作品を生み出し続けています。

萩の土の魅力を引き出し、
自らの萩焼の世界を追求する

「白釉茶碗」/見島土がベースの素地で挽いた茶碗に大道土を化粧掛けし、釉薬に藁灰釉を掛け、登り窯で焼成。「釉薬と土のコントラストを発展させた、新しい形をつくりたいと考えています」と、15代新兵衛さんは常に新たな表現に取り組んでいる

坂倉新兵衛窯が窯を構えるのは三ノ瀬(そうのせ)の谷の一番奥。萩焼の開祖である李勺光(りしゃっこう)の跡目として、作陶を代々続けてきた名門窯のひとつである。「萩焼中興の祖」と称される12代坂倉新兵衛を祖父にもつ15代新兵衛さんが、窯を率いることになったのは26歳の時。父である14代新兵衛が病に倒れ、58歳の若さで逝去されたためだ。

「父と肩を並べて仕事ができたのはわずか3カ月ほど。病に侵された身体でありながら、ひたむきに作陶に励む父の背中を見られたことが、大きな学びとなっています」

29歳で15代新兵衛を襲名。作家として、窯の経営者として、がむしゃらに生きる中で、自らが追求する萩焼の世界を見つけたという。

「萩の土には人を癒す温かみがあります。私はそんな萩の土を生かす仕事がしたい。大道、三島、金峰(みたけ)を中心とした土と、藁灰釉(わらばいゆう)や透明釉を組み合わせ、登り窯で焼く。窯変によって景色のバリエーションは広がります。土の魅力をどう引き出すか。それを常に考えながら、表現を行なっています」

油絵の制作で用いられるペインティングナイフを使った絵付けの作品も、土の美しさを引き立たせるためにはじめた仕事だという。

「萩焼の歴史の中にいるひとりとして、『15代新兵衛はこんなにクリエイティブなこともしていたんだ』と、未来に伝えられる作品を生み出せたらと思っています」。

坂倉新兵衛窯
15代 坂倉新兵衛(さかくら・しんべえ)
1949年山口県長門市生まれ。’72年東京藝術大学彫刻家を卒業、’74同大学院陶芸専攻修了。’78年15代坂倉新兵衛を襲名。’84年日本工芸会正会員となる。’89年山口県藝術文化振興奨励賞受賞。2013年「萩焼」の山口県指定無形文化財保持者に認定される。

試行錯誤を重ねて辿り着いた
自身が進むべき陶芸の姿

「萩茶碗」/「第64回日本伝統工芸展」に出品した作品。大道土と見島土をベースに成形した茶碗に、化粧土として大道土を掛けて素焼きし、そこに土灰釉を掛け、登り窯で酸化焼成させている。濃淡のある枇杷(びわ)色の景色が美しい

李勺光の流れを汲む深川窯開窯者のひとり、赤川助右衛門の子孫にあたる新庄貞嗣さん。高校3年生の夏に父である13代新庄寒山を亡くし、このまま窯を継いでも自分なりの展望が拓けないと、東京藝術大学に進学。大学、大学院で彫刻を学び、京都市工業試験場陶磁器コースを修了した後、三ノ瀬の谷に帰郷した。

「伝統的な土と釉薬、そして登り窯での火の焚き加減を組み合わせ、萩焼の可能性を探求したいと考えました。茶碗ならば、掌に吸い付くように収まり、内部の空間の深さが感じられるもの。私自身が心地よく飲める茶碗がいいですね。作品を取り巻く“空間”を意識しながら、作陶を続けています」。

新庄助右衛門窯
14代 新庄貞嗣(しんじょう・さだつぐ)
1950年山口県長門市生まれ。’77年東京藝術大学大学院彫刻専攻修了。’78年京都市工業試験場陶磁器研修生修了。’83年日本工芸会正会員に認定。2018年「萩焼」の山口県指定無形文化財保持者に認定。多くの公募展にて入選、受賞を重ねる。

 

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text=Nao Omori photo=Seitaro Ikeda


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