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山口県の歴史【第3回|幕末・明治維新編】
吉田松陰、高杉晋作…維新志士は、なぜ長州に多い?

2021.1.12
山口県の歴史【第3回|幕末・明治維新編】<br>吉田松陰、高杉晋作…維新志士は、なぜ長州に多い?

いまや山口県長門市のみならず、県全域への興味が増すばかり……の編集部。今回で3回目となる連載のテーマは「歴史」。とりわけ幕末・明治維新の時代に焦点を当てます。

かつての長州藩として知られる山口県は、幕末・明治維新の時代に多数の傑出した人物を排出しています。吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文、山縣有朋……。後に国の中枢で活躍した人物など、有能な人物が次々と現れた理由は、ただ単に“官軍”となったから、ではなかったようです。

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監修者
道迫真吾
萩博物館総括学芸員。1972年福岡県生まれ。明治維新史や洋学史を専門とする。「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産登録準備やNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の資料提供などでも尽力

リレーのように引き継がれる
志という名のバトン

明治維新によって江戸幕府は倒れ、日本が近代国家へ生まれ変わる新時代の幕が上がった。その中心となったのが薩長土肥の四藩である。各藩で数え切れぬほどの人が命を落とし、志のバトンを受け継いだ者たちによって新政府樹立を成し遂げたのだ。ここでは当時の長州藩内での動きにスポットを当てていく。

明治維新は米国ペリー提督が黒船を率いて浦賀に来航した1853年から、1877年の西南戦争までを指すことが多い。しかし萩博物館の学芸員、道迫真吾さんは「1792年のロシア使節ラクスマン来航の頃から100年間」が明治維新を考えるうえで必要な期間だと捉えている。

「教科書的には武士の世が終焉したとされる西南戦争で区切られます。武士にとっては新政府によって代々続く生き方をいきなり否定されたわけですから、素直には受け入れ難かった。しかしそれだけではなく、国際化や民主化が進み、産業革命とともに経済力の強化が図られたのが明治維新です。なので明治維新史としては100年間で考えるべきだと思っています」

薩長同盟を結び、王政復古を画策した「維新三傑」のひとり、木戸孝允は長州出身である。もちろん木戸以外にも多くの長州の志士が、新時代をつくるために戦ってきた。なぜ長州藩では前時代的な思想から脱却し、国のために尽くす志士が生まれたのだろうか。

「吉田松陰の存在が大きいでしょう。松陰は厳しい教育を受けて育ち、村田清風が拡充に尽力した明倫館の兵学師範となりました。その後、脱藩の罪を犯して各地を遊学し、米国密航を企て黒船に乗り込むなど、エキセントリックかつ人間的魅力に溢れた人物なのです」

村田清風/1783〜1855年。1828年藩主毛利敬親の命で表番頭となり、財政改革に着手。1840年江戸当役用談役として天保改革を本格化させ、財政整理に取り組む。明倫館の拡充に尽力し、長州藩を雄藩へ成長させた
萩・明倫学舎/幕末~明治に活躍した人物たちが多く学んだ藩校、明倫館。その跡地に建設された旧明倫小学校を改修整備し、いまは観光施設となっている。萩藩校、明倫館展示室や幕末ミュージアムをはじめ、世界遺産ビジターセンターやレストラン、なども併設

萩・明倫学舎
住所|山口県萩市江向602
Tel|0838-21-0304
開館時間|9:00~17:00
休館日|2月の第1火曜日及びその翌日は休館日

吉田松陰/1830〜1859年。6歳で山鹿流兵学師範の吉田家を継ぎ、10歳で藩校明倫館の教壇に立つ。19歳で兵学師範として独立。1856年から松下村塾を主宰し、多くの人材を育成。1859年安政の大獄によって処刑された
松下村塾/吉田松陰が主宰した私塾。建物は木造瓦葺き平屋建ての50㎡ほどの小舎で、当時のまま現存されている。松陰が教えたのはわずか2年10カ月だったが、多くの人材を育成した

松下村塾
住所|山口県萩市椿東1537(松陰神社敷地内)
Tel|0838-22-4643
開館時間|外観のみ見学自由
休館日|なし

 

国禁であった米国密航に失敗した松陰が、実家の杉家で幽閉中に開いたのが松下村塾だ。志半ばで命を落とした久坂玄瑞や高杉晋作、後に内閣総理大臣を務める伊藤博文や山県有朋なども松下村塾出身者である。

「松陰は兵学、哲学、歴史、地理、医学など幅広い学問に精通し、実体験に基づいた講義ができる指導者に成長していたはずです。好奇心旺盛な若者たちは松陰のもとへ吸い寄せられるように集まった。松下村塾には教科書も時間割もなく、松陰は塾生の学習意欲に応じて“論点”を教えていたのです。『いまの日本に必要なものは何か』を考える視点ですね」

松陰は1859年に30歳の若さで処刑されるも、国を思う志は塾生たちへ継承されていた。

「1864年の禁門の変に敗れて自刃した久坂、奇兵隊を組織して1867年に病没した高杉、彼らの志はリレーのバトンのように受け渡されていきました」

高杉からバトンを受け取ったのは木戸である。禁門の変によって朝敵とされた木戸は但馬国に身を隠していたが、井上馨とともにイギリスから帰国していた伊藤に『リーダーシップを執れる人物はあなたしか生き残っていない』と、長州に呼び戻されたのだという。そして木戸は倒幕運動に身を投じ、統一国家形成へ向けて尽力。1868年1月(慶応3年12月)、明治天皇が「王政復古の大号令」を発し、明治政府が樹立された。松陰からスタートしたバトンは、新しい時代を生きる者たちへ受け継がれていく。

久坂玄瑞/1840〜1864年。17歳で九州を遊歴後、松下村塾に入門。高杉晋作とともに「松下村塾の双璧」と称される。1862年英国公使館を焼き討ちするなど、攘夷の急先鋒として活動。1864年禁門の変で敗れ自刃
高杉晋作/1839〜1867年。松下村塾では松陰から久坂と並び能力を高く評価される。1863年に奇兵隊を結成し、1864年に長州征討軍に屈した藩を打倒すべく挙兵。1866年第二次長州征討軍撃退の指揮を執るも、翌年病死
木戸孝允/1833〜1877年。藩校明倫館で吉田松陰に兵学を学び、江戸に出て蘭学や洋式砲術も学んだ。長州藩の代表として薩長同盟を結び、明治新政府では中央集権国家樹立に貢献

「松陰は『危機意識をもち現状を変えなければならない』という出発点をつくりました。その源流には藩校明倫館が位置付けられ、文武奨励と人材養成を主張し拡充の必要性を説いた村田清風はリレーの監督のようなものでしょう。松下村塾は藩校明倫館を補完する場であり、熱い志をもつ有能な人材が多く育ちました。すべての根底には“教育”がある。だからこそ歴史に名を刻む多数の維新志士が、長州から輩出されたのではないかと考えています」。

井上馨/1835〜1915年。藩校明倫館で学び、1862年に高杉晋作らと英国公使館を焼き討ちした。1863年伊藤博文らとイギリスに密航留学し、1864年に帰国。新政府では要職を歴任
山県有朋/1838〜1922年。京都で尊王攘夷論の影響を受け、長州へ戻ると松下村塾に入門。1863年に奇兵隊に参加し、戦功を立てる。日本近代軍制を確立し、内閣総理大臣を務めた
伊藤博文/1841〜1909年。17歳で松下村塾に入門。1863年イギリスに密航留学し、帰国後は対外交渉役として尽力。新政府の中枢として活躍し、初代内閣総理大臣として立憲政治を確立
萩博物館/萩市全体を博物館と捉える「萩まちじゅう博物館」の中核施設。幕末・明治維新関連の実物資料を展示するほか、萩市の文化や自然を模型や映像も駆使して紹介している

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萩博物館
住所|山口県萩市大字堀内355
Tel|0838-25-6447
開館時間|9:00~17:00 (入館は16:30まで)
休館日|水曜(特別展開催期間中を除く、祝日の場合は翌平日)、年末年始

山口県の歴史
1|中世編~中世史から見えた、近代の先鋭的な政治力~
2|温泉編~仏教と神道が交差する温泉「恩湯」の物語~
3|幕末・明治維新編~維新志士は、なぜ長州に多い?~

text=Nao Ohmori photo=Seitaro Ikeda illustration=ogirimasaho


 

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