山口県の歴史【第1回|中世編】
大内氏-毛利氏
~中世史から見えた、近代の先鋭的な政治力~
いまや山口県長門市のみならず、県全域への興味が増すばかり……の編集部。今回から3回にわたってお届けするのは、山口県の「歴史」です。
山口県といえば、かつての長州藩。毛利元就などの大名は、現在でも広く知られています。また毛利氏よりも以前に、この地を治めていたのは大内氏の一族。大内氏から毛利氏へ続く、高い統治力は明治時代へも大きな影響を与えていたことがわかりました。
2大武将が残した功績は
維新志士へと受け継がれる
鎌倉幕府の終わりから約200年続いた日本の室町時代(中世)。各地の大名が自身の領地を拡大させるため、争い続けていた時代であり、現在の山口県もその例外ではなかった。そんな激動の時代にこの地を発展させ、礎を築いた2つの一族がいる。
“西国最強の大名”と呼ばれた大内氏、そして“戦国大名の雄”・毛利氏だ。両氏はどのように国をまとめていったのか、毛利博物館の柴原館長に聞いた。
「室町時代は大内氏が栄華を誇り、“大内文化”が続いていた時代です。この頃から既に強大な力をもち、山口の周防・長門などを拠点にしながら、関門海峡を約200年に渡って統治し続けた唯一の一族。国内で広大な領地を制圧した後、朝鮮や明(=中国)との貿易で得た経済力で、山口を日本有数の都市へと発展させていきました。最大で北部九州から中国地方の備後、備中までを制圧。これだけの領地を支配できたのは、確固たる支配基盤があったからこそだと思います」(柴原館長)。
大内氏は、もともとは在庁官人と呼ばれた地方役人だったため、組織づくりの面でも高い能力をもっていた一族。幕府や海外との関係性を保ちながらも、あくまで“大内至上主義”を貫いた中世らしい大名といえるだろう。だがその華やかな面の裏では、各地で代理戦争が頻発していたのも事実。そこで頭角を現したのが大内義興(よしおき)、義隆の傘下だった毛利元就(もとなり)だ。
「家臣の謀反をきっかけとした大内氏の没落で台頭し、一代で中国地方を中心に10ヵ国を支配する戦国大名へとのし上がった人物です。それまでの毛利氏は安芸(=広島)の国人領主のひとり。たとえるなら“村の長”のような存在で、領地の配分に関してはざっくりとした部分もあったといわれています。しかし国の政治となると、大内氏が残した統治技術を参考にすることで、盤石な政治基盤を構築していきました」(柴原館長)。
このように官僚的な政治を行った大内氏と、より柔軟に統治を進めた毛利氏。対照的な2氏だが、その根底にあったのは大内氏の統治システム。これは中世が終わりを迎えた後の日本にも、しっかりと受け継がれている部分だという。
「山口に伝承されてきた組織作りや指導力は、幕末の頃にはさらに洗練されています。代表的なのは長州出身者によって構成された『長州閥』。歴代総理に名を連ねる山縣有朋や伊藤博文など、多くの指導者を輩出しています。民衆を納得させる力や財源管理など、他の藩と比べても卓越したものでした。大内氏と毛利氏が築き上げた山口の歴史を知ると、成るべくしてなったと納得します」。
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毛利博物館
住所|山口県防府市多々良1-15-1
Tel|0835-22-0001
開館時間|9:00〜17:00(最終入場16:00)
定休日|12/22〜31、庭園はなし
料金|大人700円、小中学生350円、共通券(博物館・庭園)大人1000円、小中学生500円※特別展開催時は異なる
http://www.c-able.ne.jp/~mouri-m/
山口県の歴史
1|中世編~中世史から見えた、近代の先鋭的な政治力~
2|温泉編~仏教と神道が交差する温泉「恩湯」の物語~
3|幕末・明治維新編~維新志士は、なぜ長州に多い?~
text=GAKU(J.9) photo=Seitarou ikeda