伝統工芸士 折井宏司
モメンタムファクトリー・オリイ
「銅をキャンバスのように操る色の魔術師」
何百年と受け継いできた技術を生かし、進化を続ける職人。人間国宝といった道を究めた偉大な職人……日本には世界に誇る「もの」をつくる職人たちがいる。
伝統に携わる道を究めた職人の仕事や生き方を知ると、背筋が伸びる。素晴らしい「もの」をつくる技術だけでなく、想いの継承あっての職人技。中でも、100年以上後のことまで考えて作り出す宮大工や伝統工芸は、自信が歴史の一部となる、生き方や哲学と一体となった仕事だ。そう、日本には本物の「職人」がいる。
折井宏司(おりい・こうじ)
1970年富山県生まれ。26歳のときに地元、高岡に戻り、折井着色所を継ぐ。2008年モメンタムファクトリー・Oriiを設立し、新たな金属着色の手法にチャレンジ。09年伝統的工芸品伝統工芸士認定。ニューヨーク国際見本市をはじめ、国内外の展示会へ積極的に出展している
職人FILE
職人になったきっかけ|高岡銅器伝統着色の3代目として家業を継がければ、そこで途絶えてしまうと感じたから
師匠|着色職人である祖父と父
はじめた年齢|26歳
職人歴|21年
前職・経歴|コンピュータ関連
趣味(幼少期/現在)|スキー、キャンプ/カヌー、バスフィッシング
座右の銘|鶏口牛後
自ら道を切り開くのが、
これからの職人像
バブル全盛期に東京でIT関連の仕事をしていた折井宏司。時代の波に乗り仕事は順調に舞い込み、何の不自由もなく暮らしてきたある日、叔父から言われたひと言が彼の人生を大きく変えた。
「東京で成功するのもいいが、お前が実家を継がなかったら、高岡の400年の伝統はなくなってしまうんだぞ!」
富山県高岡市にある折井の実家は、祖父の代から続く金属着色の専門工房だ。高岡といえば鋳物の産地。江戸時代より銅器の生産が盛んに行われ、仏像や仏具、鐘の国内シェアNo.1。市内の至るところに多様な金属加工を担う事業者が存在しており、折井の家も地場産業の担い手だった。
「意気揚々と高岡に戻ってみたものの、そこに待っていたのは厳しい現実でした。いきなり、東京で稼いでいた給料の半分になりました。」
バブル崩壊のあおりをまともに受けた当時の高岡は悲惨だった。伝統工芸や文化は景気が悪くなると、企業や消費者から真っ先に削られるコスト。産地全体の売り上げは最盛期の3分の2までに落ち込み、挽回の術をもたない生産業者は次々に廃業に追い込まれていく。
「これからの時代を生き抜いていくためには、職人が伝統を守り、受け継いでいくだけでなく、自ら道を切り開いて、進化していかなければいけないんじゃないか。少なくとも、従来の踏襲ではなく、オリジナリティのある価値を生み出し、発注をただ待つ受け身の産業から、攻めの産業に変えていかなければいけないと痛感しました。」
一念発起した折井は、父から伝統の技を学ぶ一方で、自分が歩むべき先を求め、数えきれないほどの着色技術の実験のようなことを繰り返し試行錯誤を続けた。
「高岡の一番の財産は、この地で何百年という歴史をかけて、かけがえのないものづくりの技が生まれたという事実。その流儀を根本から覆してはダメ。それでは意味がない。いかにベースを崩さずに、新しい先を見据えるかが僕に託された課題でした」
これからの高岡、そして職人としての新しい生き方を求め、折井の挑戦がはじまった。
折井宏司の仕事に密着!
新しい着色がつなぐ 新しい人々との出会い
高岡の未来を見据えた折井の新たなる挑戦。それは「格好よく、そして自分らしく」という一歩からはじまった。
「イームズをはじめ、昔からファッションやインテリアに興味があって、いろいろと身の回りのものを買い揃えていたんですが、ふと自分が暮らす状況を見返すと、高岡の製品がまったくない。だったら自分が欲しくなるようなものを手掛けてみようと。」
まずは試しにと、独自に開発した厚さ1㎜以下の薄い金属板(圧延版)に着色する技術を生かし、お気に入りだったテーブルの天板を折井カラーに染め上げていった。
「これをいろんな人に見せたところ気に入ってくれたのが、デザイナーや建築家など、僕らがいままでまったく関係性をもっていなかった人々でした。彼らのアドバイスも参考にしながら、建築資材としての展開がはじまりました」
これまでの地域問屋を介した仏像や仏具の製造から、次第にデザイナーや建築家を通じた内装材の生産に。東京六本木ヒルズ展望台フロアの壁面をはじめ、高級ホテルやレストラン、オフィス、各種商業施設など、幅広い空間に折井宏司が開発した新たな着色技術が用いられるようになり、いまではこの建築資材としての売り上げが全体の半分近くを占めている。
2008年には「モメンタムファクトリー・Orii」を設立。2012年には、愛知県出身のデザイナー・戸田祐希利と出会いを機に、新ブランド「tone」をスタート。さまざまなインテリアアイテムの開発に着手した。直販も開始したことで売り上げが大きく伸び、低迷期のおよそ5倍の売り上げを記録するまでに成長した。
「昔は地域の問屋さんとしかやりとりをしていなかったのに、いまでは外部のさまざまな職種の人々、そして実際にうちの製品を使ってくれるユーザーの方々とも直接コミュニケーションを取るようになったことで、市場のニーズがクリアに見えてくるようになり、どんなものをつくればよいかという指標が明確に見えてきた。自分から発信することは、大きな責任を伴いますが、たまらないほどのやりがいを感じています」
これが色の魔術師の職人ワザだ
斑紋ガス青銅色(銅)
折井の着色技術の中で最も象徴的なカラー、通称“Oriiブルー”。高岡銅器の色付けを革新させ生まれた鮮やかな色彩は、他に例を見ないアンモニアガスによる変色で生まれる「Oriiブルー」。
斑紋孔雀色(真鍮)
折井宏司が発明した発色。斑紋ガス青銅色と並ぶ、Oriiブランドを代表する発色。赤、黄、青が混じったような独自の孔雀色から、その名がつけられた。
斑紋荒し色(銅)
模様や色の濃淡は、薬品の配合や技法の組み合わせにより自在に変化させることができる。折井が“色の魔術師”と称される由縁だ。
伝統的な着色技法
煮色
硫酸銅と炭酸銅の混合液を入れた鍋で金属を煮込み、「煮色」を発色させる。煮色の技法では、なんと大根おろしを用いることも着色に使うのは、大根おろし!?
オハグロ
稲の芯を束ねた「ネゴボウキ」で磨き上げる作業。このホウキでないと、「オハグロ」ならではの輝きは生まれないという。
糠焼き
糠床に薬品を混ぜた糠みそを生地に塗り、バーナーで焼き上げる「糠みそ焼き」。糠みその燃えた跡が斑模様として表れる。
高岡クラフト400年の歴史
多彩な技法が生まれる背景には、銅器、漆器などを中心に栄えた400年のものづくりの歴史がある。職人たちは、伝統を守り、時に変化させながら、現代まで守り伝えてきた。
世界に広がるOriiブランド
日常に寄り添う インテリア
折井が生み出すメタルカラーの数々は日用品にもなっている。鮮やかな色彩のインテリアアイテムやテーブルウェアは、日々の暮らしを豊かに彩る。
建材としても、国内外の一流ホテルや有名ブランドのショールームなど、いま、さまざまな場で折井のメタル・マテリアルが活用される。写真は地元、富山県民会館美術館のフロントの様子。
パリのトップセレクトショップ Fleuxも……
かっこよく在り続ける理由は、後継者を絶やさないため
人との触れ合いから自分を見つめ直す
「主従関係も厳しい一方で、親方や地域社会が面倒をすべて見てくれた職人の世界は、技をもっていれば食いっぱぐれることもないといわれてきました。しかし、いまの時代はそうはいかない」
自身の経験の中でそれを痛感した折井。何がやりたいのか、どう成長したいのかを明確にするために、常に新しい人と出会い、気持ちを新鮮に保つことを心掛けている。仕事が終われば、異業種の人々が多く集まる場所に出掛け交流。車にカヌー、釣りなど、趣味も豊富だ。
「高岡は同業者が多く集まっているため、技術的なサポートはすぐに得られますが、その分、気を付けていないと視野が狭くなってしまう部分もあります。だから僕はできるだけ違う環境の人々と触れ合いたい。ときに彼らから鋭い意見を言われて、ハッとすることも多いし、何より、多様な視点で考え、伝統工芸の新しい可能性を示すことで、若い世代の中に、自分もやってみたいと思ってもらえるところまで持っていくのが自身の一番の使命だと思っています。」
外部へとアピールを続けることでその活躍を知った若者が彼のもとを訪れる。10年前には5名だった職人の数も12名に。平均年齢も55歳から35歳へと若返った。
「自分も高岡伝統工芸400年の歴史の一部。先人たちが紡いできたことに感謝し、伝統に新しい価値を加えて、次の100年をつなぐかけ橋となれれば悔いはないですね。」
モメンタムファクトリー・Orii
住所|富山県高岡市長江530
Tel|0766-23-9685
www.mf-orii.co.jp
photo : Kazuma Takigawa, Koichi Masukawa
2017年9月号「職人という生き方」