鮭とともにある歴史と食文化が残る
新潟・村上の鮭文化を訪ねて
【序章】
新潟県村上市の城下町には、1000年続く鮭文化がいまも残されている。三面川の鮭漁と人工ふ化施設、戦後に廃れかけた鮭文化を守り継ぐ人たち、そして余すところなく美味しくいただく鮭料理。鮭のことを「イヨボヤ」と慕う村上では、鮭がいとおしく思えてきます。
村上の塩引き鮭は、腹切らずで首吊らず
11月に入り、村上に北西からの冷たい季節風が吹きはじめると、年末年始に向けての塩引き鮭づくりがはじまる。大みそかの夜、家々でごちそうを囲んで一年の締めくくりを祝い、年神さまを迎えるのだが、その主役が「塩引き鮭」。鮭は「年取り魚」とされ、正月料理にも欠かせない特別な魚だ。
塩引き鮭とは、エラや内臓を出した鮭に丁寧に塩をすり込み、数日間置いた後に水洗いし、軒先などに吊るして数週間じっくりと干したもの。村上の湿気を帯びた寒風が鮭の低温発酵を促し、鮭のタンパク質がアミノ酸の旨み成分へと変化し、熟成された独特の風味が生み出される。内臓を出すときに腹をすべて開かず中心で止めるのは、村上が城下町ゆえ「鮭に切腹をさせてはならない」という思いから。二段開きは労力が倍となり、味は変わらないが、これこそが村上の塩引き鮭の姿。干す際も決して首吊りにはしない。
取り出した内臓は部位ごとに分けて、身も皮も骨も、すべてを料理に生かし切る。そのため村上に伝わる鮭料理は100を超えるそうだ。村上の人たちは、その歴史の中で何度も川に戻る鮭に助けられてきた。鮭に特別な思いをもち、鮭への感謝の気持ちから生まれた食文化である。
<村上の人々と鮭の歴史>
927年
『延喜式』に越後国から京の都に楚割鮭(そわりざけ)、子籠鮭(こもりざけ)、氷頭(ひず)、背腸(せわた)が収められた記録がある
1619年
村上藩、鮭の稚魚の捕獲禁止の札を立てる
1642年
三面川の鮭漁に税「鮭川税」をかけ運上金となる
1736年
運上金、1716年には金約320両だったのが、鮭の不漁で金5両3分と激減
1763年
村上藩、鮭の増殖のため川普請を行う
1794年
村上藩で種川制度確立
1876(明治9)年
鮭の人工ふ化技術が日本に伝わる
1882(明治15)年
村上鮭産育養所設立。人工ふ化に本腰を入れる
1884(明治17)年
73万7378尾という空前の漁獲を記録する
1901(明治34)年
三面川畔に県の三面川鮭人工ふ化場を新設
1951(昭和26)年
三面・大三面・村上鮭産の三漁業の協同組合発足
1977(昭和52)年
海の漁業者との協力組織「三面川鮭増殖推進協議会」発足
1989(平成元)年
三面川の整備事業
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text: Yukie Masumoto photo: Kenji Itano
Discover Japan 2022年2月号「美味しい魚の基本」