【最終回】岐阜-名古屋 蓑虫山人のサウダーヂ 蓑虫山人のオン・ザ・ロード
放浪の絵師として知られる蓑虫山人、本名は土岐源吾。虫の蓑虫が家を背負うように折りたたみ式の幌(テントのようなもの)を背負い、嘉永2年(1849)14歳のときに郷里を出て以来、幕末から明治期の48年間にわたって全国を放浪し、その足跡は全国各地に残されている。そんな蓑虫山人の旅路を「蓑虫山人のオン・ザ・ロード」というテーマに乗せて紹介。今回はいよいよ最終回。蓑虫山人は果たして夢であった六十六庵を叶えられたのだろうか。
蓑虫山人(みのむし・さんじん)
本連載の主人公。1836(天保7)年、美濃の国(現在の岐阜県)安八郡結村に生まれる。幕末から明治にかけての激動の時代に、日本60余州を絵筆とともにめぐり、風景から縄文土器の写生など、多くの作品を残した絵師でありアドレスホッパー。夢は日本中の珍物を集めた博物館「六十六庵」の設立
文=望月昭秀(もちづき・あきひで)
『縄文ZINE』編集長にしてニルソンデザイン事務所代表。道南縄文応援大使。2015年夏に創刊した、縄文時代をテーマにしたフリーペーパー『縄文ZINE』で、新しい縄文ファンを発掘中。著書に『縄文人に相談だ』(国書刊行会)、『縄文力で生き残れ』(創元社)、『縄文ZINE(土)』(ニルソンデザイン事務所)がある
写真=田附 勝(たつき・まさる)
1995年よりフリーランスの写真家として活動。2006年より東北地方に通い、撮影を続ける。2011年、写真集『東北』(リトルモア)を刊行、同作で第37回木村伊兵衛写真賞を受賞。写真集『KAKERA』(T&M Project)が3月リリース。好評発売中
蓑虫山人が14歳まで遊んだ「結神社」は、現在も変わらず岐阜県にある。妾の子であった蓑虫の住んでいた家はいまとなってはわからずとも、本家であり父親の住んでいた家の場所はだいたいの目安がついた。幼少時に奉公に出されていた「受徳寺」(岐阜県安八町)がその場所からすぐのところにいまも残っている。
蓑虫は故郷に戻ってきた。──明治29年、東北の旅を終えた蓑虫は美濃で落ち着く場所を探し、自身の所縁のある場所をいくつも訪ねている。受徳寺にも突然やってきたという。ボロボロの格好で何の前触れもなく玄関先に現れた蓑虫を、当時の住職はむげもなく追い返した。仕方のないことだろう、この地ではいまだ5年前の濃尾大地震の被害が後を引き、この年には洪水にも見舞われたのだという。誰しもが余裕がなかった。
いまでは受徳寺の門前には「蓑虫山人ゆかりの寺」と彫られた石柱が建てられ、境内には立派な石碑に蓑虫山人の歌が刻まれている。現・住職もまた地域学習の小学生を相手に蓑虫の話をしているということだ。
地元は蓑虫のことを忘れていなかった。偉人でもないこの男を、どう地域の小学生が受け止めるのだろうか、それを考えるのは楽しく、うれしかった。 蓑虫は受徳寺も含め、名古屋に腹違いの兄・左金吾を訪ねたり、姉のいる「寿松院」(愛知県名古屋市守山区)に厄介になったりするが、一向に落ち着く場所が見つからなかった。蓑虫を温かく迎えてくれた東北とは違い、故郷の風は彼に少し冷たかったようだ。
木曽川の辺、岐阜県笠松円城寺地区に蓑虫山人の描いた絵がいまでもいくつか残されている。そのひとつ、藤井家の門をたたき、見事な屏風を見せてもらう。長良川、養老の滝、高賀山、眺めて楽しい連作だ。齢60を超えてもなお、蓑虫の技量はますます磨かれている印象がある。現在のこの一双の屏風は本家と分家で半双ずつ、普段使いしながらも大切にしているという。
蓑虫の“ある計画”
いまでいう“クラウドファンディング”のようなことを考え実行し、達成した
明治30年、秋。蓑虫は絵日記にある計画のことを描いている。「籠庵」──柱も壁も屋根も床も、調度品でさえすべてを竹でつくるという一風変わった庵だ。実際すべてを竹でつくった家など現在でも聞いたことがない。同時にそれはまるで落ち着かない自身の住処を自らの手でつくる計画でもある。
といっても、なんの財力もない蓑虫山人、ここで一計を案じる。材料としての竹を提供してくれた笠松の人たちにその竹の数に応じて絵を描いて返礼とすることを考え告知する。かくして見事に竹は集まり(売るほど集まったそうだ)無事籠庵はつくられる。蓑虫山人はいまでいう“クラウドファンディング”のようなことを考え実行し、達成したのだ。笠松円城寺地区に蓑虫の絵が多く残っているのはこういった理由があったのだろう。
つくられた籠庵はそれで終わりではなかった。蓑虫はこの庵をかねてから終の住処と目をつけていた長良川に流れ込む湧水地である岐阜・志段見に持っていき据えつけるつもりだった。この様子も絵日記に描いている。笠松円城寺地区から志段見まで約15㎞、籠庵は大勢に引かれ移動していく。庵には「籠中天地」と書が掲げられ、たくさんの人たちがところ狭しとこのイベントに楽しそうに参加し、2階からも多勢の見物人、沿道の店は大賑わい。祭りのような雰囲気の中、蓑虫は悠々と引かれていく籠庵の中でさぞかし得意満面だっただろう。すべては絵日記でありながら一遍の詩歌か何かの寓話のようだ。夢の中にいるのかとも思える。最初に見たときには当然のように蓑虫のホラ話の一種かとも思った。しかし、一蓮の絵日記の最後には当時の新聞記事が貼り付けられている。
国立岐阜工業高等専門学校名誉教授の水野耕嗣さんがこの籠庵の現実性を当時の天気や新聞記事などにわたり詳細に調べている。「籠庵の出発は11月20日の朝8時頃だと私は考えています。天候やその頃の状況など矛盾するところはありません。しかも当日の道路使用許可も警察署から取っている。貼り付けられた新聞記事も岐阜日日新聞(岐阜新聞の前身)の記事だとわかっています。もしかしたら賑わいについては多少の誇張はあったかもしれませんが、その日は土曜日、人が集まりやすい状況、新聞記事になっているのもまたその証拠かもしれません」。
目的地までもうすぐ。籠庵は金華山を望む長良橋を渡る。遠景で描かれたこの絵からは、じっと耳を澄ませばかすかに遠ざかる祭り囃子が聞こえてくるような、静かでどこか懐かしさも感じる。蓑虫は籠庵の中で揺られながらも“ドローン”で自身を映すようにこのシーンを思い浮かべていたのだろう。
無事に籠庵は志段見の荻の滝の近くに据えつけられ、蓑虫は1年ほどそこで過ごしていたようだ。この地の中国の山水画を縮小したかのような景観が気に入っていたのだろう。が、ある日の大風で籠庵は飛ばされてしまったということだ。まるで童話の「三匹の子豚」のようなオチがつくところも実に蓑虫らしい話だ。
道の途中で
この後、名古屋の「長母寺」(愛知県名古屋市東区)を住処とし、半年後に風呂上がりにのぼせて死んでしまうことはすでに連載の第一回で述べた。夢である六十六庵は結局のところ、かなわぬ夢となってしまった。
しかし、そもそも日本全国のおもしろいものを集め、日本という国を蓑虫の視点で紹介する博物館としての六十六庵。資金のない一介の旅絵師に実現できただろうか、取材した中では、誰もがそのことに首を捻り、蓑虫特有の大言壮語だと思っていた。だが筆者はこう思う。蓑虫にはずいぶんいい加減なところもあったのはその通りだ。資金が集まっていたとも思えない。それでも六十六庵の夢は本物だった。蓑虫の人生を丹念に追っていけば、その夢にすべての行動はつながっている。寄り道があってもそこにひとつの矛盾もない。諦めてはいなかった。長母寺には壮大な六十六庵の計画図を描いたものが残され、またその死の直前も風呂を借りた近くの「漸東寺」(愛知県名古屋市東区)の住職とその相談をしていたところだったという。日本の六十六地域の題字となる書は各地の名士に依頼しいくつかはすでに書かれていた。回り道や寄り道をしながらも、来るべき夢の実現に自身の武器を磨いてきた。人生をかけた夢に誠実に向き合う以外の選択肢なんてない。
善意に満ち、美しくも
驚きにあふれた絵日記を描き続けた
蓑虫山人は、偉人でもなければ何かを成し遂げたわけでもない人物だ。──いいかげんなところがあって、常に変人を気取り、声が大きい。幕末から明治にかけて日本各地の庶民の中を旅し、縄文時代の遺物に夢中になり、人々に受け入れられ、人々を楽しませた。大望を抱き、時に空回りしたりしながら旅をした。そして、善意に満ち、美しくも驚きにあふれた絵日記を描き続けた、そんな人物だ。
写真=田附 勝 文=望月昭秀
2020年5月号「日本人は何を食べてきたの?」