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【第6回】蓑虫山人の東北漫遊日記「蓑虫山人に出会う」
蓑虫山人のオン・ザ・ロード

2020.9.13
【第6回】蓑虫山人の東北漫遊日記「蓑虫山人に出会う」<br><small>蓑虫山人のオン・ザ・ロード</small>

放浪の絵師として知られる蓑虫山人、本名は土岐源吾。虫の蓑虫が家を背負うように折りたたみ式の幌(テントのようなもの)を背負い、嘉永2年(1849)14歳のときに郷里を出て以来、幕末から明治期の48年間にわたって全国を放浪し、その足跡は全国各地に残されている。そんな蓑虫山人の旅路を「蓑虫山人のオン・ザ・ロード」というテーマに乗せて紹介。第6回は、東北の旅についてです。
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蓑虫山人(みのむし・さんじん)
本連載の主人公。1836(天保7)年、美濃の国(現在の岐阜県)安八郡結村に生まれる。幕末から明治にかけての激動の時代に、日本60余州を絵筆とともにめぐり、風景から縄文土器の写生など、多くの作品を残した絵師でありアドレスホッパー。夢は日本中の珍物を集めた博物館「六十六庵」の設立

写真=田附 勝(たつき・まさる)
1995年よりフリーランスの写真家として活動。2006年より東北地方に通い、撮影を続ける。2011年、写真集『東北』(リトルモア)を刊行、同作で第37回木村伊兵衛写真賞を受賞。近年の代表作に『魚人』(T&M Projects)、東出昌大写真集『西から雪はやって来る』(宝島社)などがある

文=望月昭秀(もちづき・あきひで)
『縄文ZINE』編集長にしてニルソンデザイン事務所代表。道南縄文応援大使。2015年夏に創刊した、縄文時代をテーマにしたフリーペーパー『縄文ZINE』で、新しい縄文ファンを発掘中。著書に『縄文人に相談だ』(国書刊行会)、『縄文力で生き残れ』(創元社)、『縄文ZINE(土)』(ニルソンデザイン事務所)がある

縁側から庭を眺める現在の当主・麓耕平さん。建物は当時のままで、縁側に続く広間で大博覧会は行われた。蓑虫は庭に懐流園と名前を付け、旅先からも手紙を通して庭の様子を訪ねていた。この庭に限らず、蓑虫は木々や草々が育ち自然に調和する庭造りを目指していたようだ

一枚の写真がある。

120年前に撮影されたもので、モノトーンの色彩は薄くなりつつある。写真の人物は編んだ三角の帽子を高く被り、自慢なのだろう、瘤とうねりのある木の杖を手にしている。飄々とした表情は何を考えているかはわからない。

この人物の名は蓑虫山人。本連載の主人公だ。

秋田県扇田に残されたこの写真は、たまたまこの地に訪れた肖像写真家が、明治28年4月に写したものだ。蓑虫60歳、自身の還暦、旅の終わりの記念としての意味合いがあった。

蓑虫山人の足跡をたどる旅はひとつのクライマックスを迎える。蓑虫山人に会いに行く旅のそのひとつの目的が、この蓑虫の肖像写真だった。

現存する蓑虫の写真はこの1枚。手のひらに収まるサイズで、思ったよりも小さい。ただの一枚の印画紙であっても、その微かな重みに、蓑虫に出会えたという手応えを感じる。

この頃の旅の道連れは、気仙沼で出土した遮光器土偶だ(後ろの笈に飾られているもの)。蓑虫は縄文土器や土偶を愛した
所蔵=長母寺(愛知県)

明治23年5月、仙台から蓑虫の第3期東北漫遊記ははじまる。

岩手県の南部、宮城県の北部(現在の一関市と気仙沼周辺)を気に入り、つい滞在が長くなる。前回の誌面で紹介した猊鼻渓の宣伝を手掛けたのもこの頃だ。やることはそれほど変わらない。印象的な情景を探して観光し、絵に描いて人に紹介する。土器や土偶を中心に、珍しいものを持っている人の家を訪ね、それを模写する。酒を飲み、夢を語り、いままで見てきた壮大な景色をその快活な表現力で活写する。

そんな頃、蓑虫にとってショックな出来事が起きる。明治24年10月28日、故郷を襲った美濃大地震だ。当時の新聞で「ギフナクナル」と第一報を伝えたほどの壊滅的な大惨事だった。蓑虫も後に故郷に手紙を送り、その被害の様子を確かめている。蓑虫はどの時期も自分は美濃人だと名乗っていた。家出人としての千切れた雲のような生活をこの世界とつなぎ留めていたのは故郷という存在だ。美濃の災害は彼にとっても身を引き裂かれる思いがあった。

六十六庵という博物館設立の夢はいまだ目処が立たない。少しのんびりし過ぎた。

明治27年に岩手を後にし、蓑虫は秋田に入る。秋田県立博物館の学芸員・加藤竜さんが博物館に所蔵されている蓑虫山人の絵日記について、ある傾向についてお話してくれた。「この頃の絵日記には秋田県内の考古遺物の絵や拓本が多く残されています。蓑虫はそれらを調べ、展示をしようと考えていたようです。それにしてもずいぶん活発に調べていたようです」。

絵日記は記録としての意味合いも強くなる。やはり少し焦っていたのかもしれない。

正確に描くわけではない。
そのものがも 雰囲気を描く。

秋田県立博物館に所蔵されている土器、土偶とそれを描いた絵日記。記録と絵画的な魅力が両立している

蓑虫が東北の旅で最も世話になったのは、秋田県扇田の麓家かもしれない。蓑虫は麓家の親子2代に世話になった。最初のポートレートはこの麓家に所蔵されていたものだ。

現在の当主は麓耕平さん。いまでも蓑虫が世話になっていた頃の建物と、蓑虫が作庭したといわれる庭はほとんどそのままに残されている。写真だけでなく、麓家に残されている蓑虫による掛け軸や絵日記は興味深いものが多い。取材時、思わず時間を忘れ、それらに見入り、写真を撮る。縁側に腰掛け、庭を眺める。当時の当主と蓑虫はどんな話をしたのだろうか。静かに流れるひんやりとした空気が心地よい。

出立の日、旅の終わり

麓家に残された自画像には、実際の容姿とはかけ離れた達磨大師のような爺が描かれている。蓑虫が究極的に目指した姿を描いたのではないかと思う

旅の空で還暦を迎える。あれほど自慢だった健脚と体力にも陰りが見えはじめた。絵日記に描く自身は家に変形する大きな笈(米)を背負って快活そうでも、実際は笈に車輪を付けて転がし、楽をしていたという証言も残っている。

還暦はひとつの区切れだ。ここ扇田で蓑虫は旅の終わりを決断する。

冒頭の肖像写真を麓家に残し、笈と笠を扇田の徳栄寺に奉納する(寺も奉納されても困ったかもしれない)。これは大きな決断だ。この笈は蓑虫を蓑虫たらしめた笈だ、絵日記では常にかたわらにあり、自身の分身ともいえる存在だった。故郷までの旅路もあるのだから手放すのは時期尚早ともいえる。それでも20年を過ごした東北、去来するさまざまな感傷と別れを告げるのにはこうした儀式が必要だったのだろう。

蓑虫は東北を去る。次回は最終回、岐阜・名古屋での蓑虫を紹介する。

後日譚。東北を去った半年後、蓑虫は徳栄寺に笈の返却希望の手紙を送り、むげに断られている。笈は茶箪笥として近所の家にもらわれていったようだ。

明治28年9月、麓家で蓑虫は大博覧会を開く。中心に気仙沼土偶を置き(サイズはかなり誇張)、書画と骨董と縄文を陳列。多くの客が訪れた(ように描かれている)。このような博覧会を同年11月に岩手県水沢で、明治18年・20年にも青森で開催している
出立の日は晴れ晴れとした表情だ。麓家の門前にたくさんの人が見送りに集まる。馬上の蓑虫も皆も両手を広げて柏手でも打ったのだろうか所蔵=長母寺(愛知県)

 

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写真=田附 勝 文=望月昭秀
2020年3月号「SAKEに恋する5秒前。」
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