高野山が生まれた理由とは?
空海の聖地を訪ねる。
和歌山県北東部にある高野山。山の名前と勘違いされがちですが、実は高野山金剛峯寺の山号であり、海抜約850mの山々に囲まれた盆地の呼称でもあります。この地に世にもまれな宗教都市が生まれた理由を探ります。
海抜約850mの山上に117の寺院がある
1934(昭和9)年に描かれた『高野聖山鳥瞰図』には峰々に囲まれた山上の盆地、高野山が。東西 5.5km、南北 2.2 kmに広がる一帯にかつては 300以上、現在は117 の寺院が建ち、学校や病院、民家などが点在する。
修行に集中するため都会ではなくローカルを選んだ
弘法大師空海は、京の都の東寺を密教の教場、高野山を修禅道場と位置づけた。都会の雑踏やしがらみから解き放たれ、時空の制約を払い、大自然と自らが溶け合うような瞑想の地としたのだ。
空海が使った手段はクラウドファンディング!?
列車とケーブルカーを乗り継いでたどり着く高野山は、いまや世界各国から人々が訪れる一大聖地だ。
高野山は「内の八葉、外の八葉」に包まれるといわれる。伽藍周辺を8つの低い山に、さらに外周を標高1000m級の八山に囲まれ、さながら浄土の象徴とされる蓮華の台だ。「吉野山から南に1日、さらに西に向かって2日ほどの距離にある平原の幽地」に密教の根本道場を開きたい、「国の安寧と人々の幸福を祈る一院を」と、弘法大師空海が嵯峨天皇に上奏したのは平安初期の816(弘仁7)年。この地は、山岳修行に励んだ若い頃、山野を歩き回る中発見した場所で、高い峰続きで人が通る道もなく、修禅の場に最適だと考えたのだ。
勅許が下りると原生林を切り開き、伽藍建設に心血を注いだ弘法大師空海。その莫大な造営費用はいったいどう工面したのだろう? さまざまな説がささやかれるが、確かなのは自ら紀伊国の有力者に寄進を切々と手紙で訴えたこと。現代のクラウドファンディングのごとく、「功徳を積んでともに浄土へ」と篤い志を集めたのだ。
下界から離れ、冬は氷点下も珍しくない厳しい自然環境の高野山。都で熱心に活動する一方、心静かに真言密教の修禅に励む地を求めた弘法大師空海。その志を継いだ弟子達によって、世にもまれなる一大霊場がここに誕生した。
中心地「金剛峯寺」は高野山そのもの
「一山境内地」という言葉がある。高野山全体がひとつの寺院であり境内地だという意味で、金剛峯寺は金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経に基づき名づけられた総称。現在は高野山真言宗3600余りの寺院を統括する総本山。
text=Kaori Nagano(Arika Inc.) photo=Kazuma Takigawa plan=A2 WORKS
2019年5号 特集「はじめての空海と曼荼羅」
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読了ライン
《空海の聖地を訪ねる。》
1|真言密教はじまりの地「東寺」
2|「大日如来と薬師如来」を比較で知る密教の個性
3|秘境の宗教都市「高野山」が生まれた理由
4|修行の場を曼荼羅化した「壇上伽藍」
5|入定した空海が生き続ける「奥之院」