香りの歴史〈明治時代~現代〉
香りはウェルビーイングの時代へ
西洋の香水文化との出合い

日本は1400年以上の歴史をもつ香り大国。明治の西洋化は、日本独自の香り文化に大きな変化をもたらす。西洋の香り文化“香水”との出合いが日本の香りの可能性を無限に広げていくことに。
監修=稲坂良弘
「日本香堂ホールディングス」特別顧問、脚本家・演出家。
1575年に京都で創業の「香十」前代表。香の伝道師として知られ、『香と日本人』など著書や講演・講座も多数。
東西の香り文化が出合い
香水を伝統技術でお香へ

英国の建築家ジョサイア・コンドルが設計した鹿鳴館。外務卿・井上馨は欧化政策のために、各国代表を招いてパーティを主催。香りはもちろん、東西の文化が出合う場となった
楊洲周延『開花貴婦人競』/東京都立図書館蔵
大政奉還によって再び天皇が政をつかさどる時代に。この歴史的転換期にも蘭奢待が登場する。信長の截香から300年を経た1877(明治10)年、明治天皇は蘭奢待の截香を命じ、新時代への歓びをもってその香りを炷いた。
伝説の名香で幕を開けた日本に、新たな出合いが。それは西欧諸国から入ってきた液体の香り文化“香水”だ。香木という固体を炷く香り文化を究めてきた日本にとって大きな驚きだった。
東西の香りが出合ったのは、1883(明治16)年に日本初の西洋式迎賓館・「鹿鳴館」で開催された夜会だ。西洋の貴婦人からは甘美で官能的な香水の香りが、迎える日本の貴婦人からは伽羅の優美な香りが立ち上る。この香りの交流は、強い印象を残しただろう。

伯爵夫人や侯爵夫人となった公家の娘や大名家の奥方は、コルセットを締めてドレスをまとって西洋の客人を歓待する夜会へ。夫人たちが絹着物から仕立てたバッスル・ドレスからは雅な伽羅の香りが、また西洋の婦人からは官能的で甘美な香水が漂った
写真提供=徴古館
そして香木にはない西洋の甘美な香水を伝統の技術でお香にできないかと開発に取り組んだのが、明治の香り職人・鬼頭勇治郎だ。トップノートからラストノートまで移り変わる香水のお香をつくるために、工夫を凝らし試行錯誤を重ねて、日本の香りにはないフローラルなお香を誕生させた。「香水香 花の花」と命名されたお香は、いまなお人気商品。約120年前に開発した鬼頭の技術をさらに進化させ、いまでは香水やエッセンシャルオイルの香りもインセンス(お香)にできる。そして液体香料の「調香」と固体香料の「調合」から、香りの創造は無限となった。
日本の香り文化は
世界へ羽ばたいていく
さて日本の香り文化の象徴である香道は、海外でも広がりを見せている。1982(昭和57)年には、海外初の香道実演紹介をニューヨークの国連本部内大ホールの舞台で実施。大きな反響を得た。
また昨今、香りのウェルビーイングに関心を寄せる企業は多い。ホテルや旅館のもてなしはもちろん、職場でアロマやお香を取り入れる企業も増えているとか。
1400年以上にわたる日本の香り文化。お香から立ち上る癒し、安らぎ、心のときめきは変わらぬままに、新たな可能性を立ち上らせていくに違いない。
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10|香りのキーワード
text: Yukiko Mori illustration: Takayuki Ino
2025年5月号「世界を魅了するニッポンの香り」