広くアジアを結ぶ琉球船の《貿易ルート》
|キーワードで探る琉球王国の秘密②
15世紀から19世紀まで、約450年間存在した琉球王国。アジアの貿易拠点として栄えた海洋国家の姿を、琉球歴史研究家の賀数仁然さんの解説のもと、4つのキーワードでひも解いてきます。
今回のキーワードは“貿易ルート”。琉球王国の交易船がいかに広範囲にわたって動いていたのか? 14世紀末から16世紀の琉球王国の貿易の様子を例に紹介します。
アジア各地と交易していた最盛期
1372年、明と呼ばれた当時の中国と正式な国交を結ぶと、琉球の交易船は、広くアジアをカバーするほど動きました。日本、中国、朝鮮、安南(ベトナム)、シャム(タイ)、マラッカ(マレーシア)、マジャピト(インドネシア)、ルソン(フィリピン)まで。
1458年に鋳造された「万国津梁の鐘」という梵鐘が残っています(正式名称『旧首里城正殿鐘 』沖縄県立博物館・美術館蔵)。「琉球国ハ南海ノ勝地ニシテ……」ではじまる、その梵鐘には琉球国の気概を語る言葉が刻まれています。いまでもウチナーンチュ(沖縄人)は好んで“万国津梁の精神”を語ります。要約すると、「琉球国は立地に恵まれ、世界の架け橋となり、外国産のお宝が国中に満ちあふれるほどの理想的な国である」ということです。
実はまんざら大げさな話でもなく、当時の琉球は本当に豊かでした。資源に乏しい国でしたが、アジア中の国にアプローチできる立地であり、船の技術に長けた海洋国家でした。自国のものでない、「外国産の宝」と正直に語っているところがいじらしく、なんだか小さな国がいとおしくすらなります。
では当時おつき合いのあった、万国……中でも、今回は東南アジア、マラッカ王国との交易をご紹介しましょう。『歴代宝案』という琉球の外交文書が残っていますが、マラッカ国王からの親書(1480年)の写しが残っています。当時マラッカは、琉球の友好国であり、経済面でも互いに好調であったことがうかがい知れます。インドからも偏西風に乗って商人がやってきており、大きなマーケットがありました。「琉球人は、毎年のように船に乗ってやって来て、ベンガラ産の布を大量に買い付ける」という記録があります。そして、その大量の布は琉球ではなく、「7〜8日で赴ける日本に持っていって売る」(トメ・ピレス『東方諸国記』)そうで。ベンガラとは、現在のバングラデシュあたりであり、人気商品でした。この布は、現在「インド産古更紗」と呼ばれているものです。染め織りの技術が抜群によく、よく売れたのでしょう。
毎年のように買い付けに来ている琉球人でしたが、1511年ポルトガルがマラッカを占領し、植民地化すると、記録からマラッカとの交流が途絶えます。コロンブスにはじまる西洋の大航海時代に押され、ルソンもスペイン領となります。当時のスペイン国王フェリペ2世にちなんで、フィリピンという国名になります。グローバル社会のはじまりです。
しかし琉球の東南アジア交易はやがて斜陽を迎え、日本は鎖国を挟み、世界は近代資本主義システムへと動いていきました。
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01|“東アジアのハブ”として栄えた海の王国・沖縄
02|広くアジアを結ぶ琉球船の“貿易ルート”
03|“寄港地”として栄えた久留米島
04|貿易が生んだ多彩な琉球の“食文化”
Text: Hitosa Kakazu
Discover Japan 2024年7月号「沖縄」