TRADITION

現代でも語り継がれる!
琉球王国のキーパーソン
沖縄の豊かな文化のルーツを探る
「琉球王国」の歴史|Part 3

2022.8.11
現代でも語り継がれる!<br>琉球王国のキーパーソン<br><small>沖縄の豊かな文化のルーツを探る<br>「琉球王国」の歴史|Part 3</small>
photo: koichi

日本史でいえば室町時代から明治時代まで、約450年という長きにわたって続いた琉球王国。東京国立博物館で開催中、九州国立博物館に巡回する沖縄復帰50年記念 特別展「琉球」で出合える文化財の紹介を含め、現代の沖縄につながる独自の歴史と文化をひも解く。

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尚家を頂点とする王族家系略系図

琉球王国の礎を築いた人物や王国の運命を大きく変えた人物など、約450年にわたる王国の歴史に名を残すキーパーソンがいる。その中の6人を、それぞれの人となりを物語るエピソードとともに紹介。

【第一尚氏】
琉球王国最初の王朝。三山統一を成し遂げた尚巴志の父を初代国王とし、7代63年間続いた

1 尚思紹(しょうししょう)
2 尚巴志(しょうはし)
3 尚忠(しょうちゅう)
4 尚思達(しょうしたつ)
5 尚金福(しょうきんぷく) 志魯(しろ) 布里(ふり)
6 尚泰久(しょうたいきゅう)
7 尚徳(しょうとく)

【第二尚氏】
第一尚氏第7代国王・尚徳の死後、クーデターによって王位に就いた尚円を初代国王とする王朝。19代410年間続き、王国の黄金時代を築いた

1 尚円(しょうえん)
2 尚宣威(しょうせんい)
3 尚真(しょうしん)
4 尚清(しょうせい) 尚維衡(しょういこう) 尚弘業(しょうこうぎょう) 尚懿(しょうい)
5 尚元(しょうげん)
6 尚永(しょうえい) 尚久(しょうきゅう)
7 尚寧(しょうねい)
8 尚豊(しょうほう)
9 尚賢(しょうけん)
10 尚質(しょうしつ)
11 尚貞(しょうてい) 尚純(しょうじゅん)
12 尚益(しょうえき)
13 尚敬(しょうけい)
14 尚穆(しょうぼく) 尚哲(しょうてつ)
15 尚温(しょうおん)
16 尚成(しょうせい)
17 尚灝(しょうこう)
18 尚育(しょういく)
19 尚泰(しょうたい)

※数字は王位継承順位を示す

<key person file 01>
三山統一を成し遂げたカリスマ的存在

尚巴志(しょうはし) 1372-1439

山北(さんぼく)、中山(ちゅうざん)、山南(さんなん)という3つの国に分かれていた三山時代。本島南部の佐敷(さしき)グスクに生まれた巴志は、21歳で父から家督を譲り受け、佐敷按司(あじ)(村落の首長)となった。琉球王国の正史『球陽』では、「巴志為人肝大志高雄才蓋世(巴志の人となりは豪胆で志が高く、世を覆い尽くすほど雄才である)」と伝えている。1406年に中山王を滅ぼした際も、中山の按司たちは、暴君を倒した若く英明な巴志を慕い、歓迎したとされる。父・思紹を中山王に就けた巴志はその後、山北王、山南王をも滅ぼし、沖縄初の統一国家である琉球王国を樹立した。

1422年、父の死により第2代国王となった巴志は、王都を首里とし、城と港の整備に着手した。首里城の創建時期は定かではないが、巴志の時代に周辺環境までを含めて本格的に整備されたと考えられている。

港は、首里と海で隔てられているものの海が深く、大型船が入港できる那覇の入り江に整備した。この那覇港を玄関口に、中国をはじめ日本、東南アジア、朝鮮を相手に、巴志が国として取り組んだ中継貿易によって、王国は大いに繁栄することになる。

ほかにも、明から派遣された懐機(かいき)を国家の大臣として起用したり、現在の市町村にあたる間切(まぎり)という行政単位を確立したり、地方と首里を結ぶ道路を開いて早馬による通信網を整備するなど、巴志は卓越した先見性と国際感覚で、王国の礎を築いた。

<key person file 02>
王子に気に入られて百姓から国王に!
奇跡の出世街道人生

尚円(しょうえん) 1415-1476

第二尚氏初代国王・尚円はもともと金丸(かなまる)という名で、伊是名(いぜな)島の百姓の出身。王国の正史『球陽』では、20歳で両親を亡くした金丸は、田んぼの水をめぐる村人たちとのいさかいをきっかけに、24歳のときに妻と幼い弟とともに島を出て、沖縄本島国頭(くにがみ)へ移住したとしている。

1441年、王都・首里で百姓として暮らしていた金丸に大きな転機が訪れた。後に第一尚氏第6代国王・尚泰久となる越来(ごえく)王子と出会い、気に入られて、家臣として仕えることになったのである。生来の勤勉さもあって、次第に頭角を現し、38歳で高級官僚の黄冠まで上り詰めた。泰久が即位するとその寵愛を一身に受け、貿易長官にまで出世した。だが泰久の死後、尚徳王が即位すると意見が対立。傍若無人な王に愛想を尽かし、1468年に官職を辞して、領地の内間に隠居した。

だがその翌年、再び大きな転機が訪れる。若くして尚徳が急逝すると、その悪政に不満を募らせていた群臣たちによるクーデターが勃発。彼らが次期国王として推挙したのが金丸だった。そのいきさつについて『球陽』では、尚徳の幼子の即位式を行おうと群臣たちが集まると、白髪の老人が現れ「金丸こそが王にふさわしい」と告げ、皆がこれに賛同したとしている。その真偽ははっきりしていないが、そうして尚円として即位した金丸を初代国王とする第二尚氏王朝はその後、400年以上にわたって琉球王国を治めた。

<key person file 03>
神のお告げにより即位した歴代最長の国王

尚真(しょうしん) 1465-1527

尚真の父は第二尚氏初代国王・尚円、母は国王妃・宇喜也嘉(おぎやか)。尚円が亡くなると、尚真が幼かったことから、尚円の弟・尚宣威(せんい)が即位した。その即位式で事件が起こる。祭祀を執り行うノロと呼ばれる神女たちは、宣威に背を向け、尚真こそが王にふさわしいという神託を告げたという。宇喜也嘉の策謀によるともいわれるこのお告げを受けて宣威は退位。弱冠12歳の尚真が第3代国王となった。

尚真は王朝最長となる50年にわたって在位し、王国の基盤をつくり上げた。明との関係強化に務め、朝貢貿易を発展させ、日本や朝鮮、東南アジア諸国との貿易にも注力。国内では、各地の按司(あじ)(村落の首長)を王都に集居させ、国王を頂点とする位階制の中に取り込んだ。ほかにも、聞得大君(きこえおおきみ)を頂点とする神女組織の確立、玉陵(たまうどぅん)(王家の墓)の造営や軍用道路の整備など土木建築や環境美化の事業にも取り組んだ。数々の偉業を成し遂げた名君尚真の治世は、王国の黄金時代となった。

<key person file 04>
サツマイモ、木綿織、黒糖を
世に広めた〝沖縄産業の父〟

儀間真常(ぎましんじう) 1557-1644

1596年、琉球王国から明の皇帝への貢献品を届ける進貢使の一員として中国に渡った真常は、豊かに実る農作物に衝撃を受けた。当時の琉球は土地が痩せていて技術も未発達。それゆえ食料不足に苦しむ人々をなんとかして救いたいと、真常は常日頃から考えていたのである。明の農業を目の当たりにし、その想いを強めて帰国した真常に、ある知らせが届く。進貢船で明に渡った野国総管(のぐにそうかん)が甘藷(かんしょ)(サツマイモ)の苗を持ち帰り、地元で栽培しているという。真常は苗を分けてもらい、栽培に成功。人々に栽培法を指導し、普及に取り組む中で、画期的な栽培法も生み出した。サツマイモはその後15年ほどで国中に広がり、食料事情を改善した。また真常は、島津侵攻事件後に薩摩に出向いた際、綿産業について学んだ。種子を国に持ち帰ると、琉球で栽培法と木綿織りの技法を確立した。さらに、若者を明に派遣して製糖法を学ばせてもいる。その後、黒糖の自家製造に成功し、その技法を広く伝えた。

<key person file 05>
数々の政治改革を行った
近世琉球の立役者!

羽地朝秀(はねじちょうしゅう)
1617-1675

名家出身の政治家で、唐名で向象賢(しょうしょうけん)とも呼ばれる。琉球に逃れた鎮西(ちんぜい)八郎(源為朝)が王家の始祖・舜天になったとする、琉球王国初の正史『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』をまとめたことでも知られる。

朝秀が活躍したのは、薩摩藩の支配を介して、王国が幕藩体制に組み込まれていた時代。財政は疲弊し、国家としてとても不安定な時代だった。これに対し朝秀は、大胆な政治改革を断行。幕藩体制と協調しつつも、古琉球から近世琉球へと社会を変革し、王府を中心とする琉球王国の立て直しを行う。50歳で王国政治の最高位である摂政(しっしー)に就任した朝秀は、7年の在任中にさまざまな法令や訓令を出した。それらを総称して「羽地仕置(しおき)」という。その内容は、庶民から王家に至るまで質素倹約の奨励、神女の政治的影響力の排除と宗教祭祀の見直しなど政治、経済、社会の全般にわたった。伝統や慣習と相反するものも多く、改革には困難が伴ったが、羽地仕置は「黄金の箍(クガニヌタガ)」として王府の指針となり、朝秀の死後も王国を支え続けた。

<key person file 06>
「筆談」で冷静沈着に
外交を成功させた実力者

蔡温(さいおん) 1683-1761

林業や農業の整備、土木治水などで手腕を発揮した政治家で、47歳で官僚の最高位にまで出世した。第二尚氏代13代国王・尚敬に重用されたが、その即位に際してある事件に巻き込まれる。国王が即位するには、冊封(さくほう)関係にある中国の皇帝に認めてもらう必要があり、国王の命を受けた冊封使(さっぽうし)が御冠船(うかんしん)で派遣される。通常は正副使2名と、300名程度の商人が貿易品とともに来航。王府は貿易品をすべて買い取るというルールがあった。ところがこのときは、皇帝の命で中国全土の地図を作成中の測量官2名を含む、史上最多の600人以上がやってきた。大幅な予算オーバーの上、財政難の王府が用意できたのは商品の4分の1。不満噴出の中国との折衝を任せられた蔡温は、方々を走り回り、わずかながらも資金を調達して誠意を見せつつ、あえて筆談で交渉を進めた。そうして理路整然と意見を交わし、粘り強く対応した結果、王府の提示額で話し合いがまとまった。この功績は、蔡温の評価をさらに高めた。

 


知れば知るほどおもしろ
琉球王国のおもてなし外交術

 
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監修=沖縄県立博物館・美術館学芸員 伊禮拓郎さん
参考:東京国立博物館ほか編『沖縄復帰50年記念 特別展「琉球」』図録(東京国立博物館、九州国立博物館、NHK、NHKプロモーション、読売新聞社)、JCC出版部著『絵で解る琉球王国 歴史と人物』(JCC出版)、上里隆史著『誰も見たことのない琉球』(ボーダーインク)、沖縄県立総合教育センター 「琉球文化アーカイブ」(http://rca.open.ed.jp)、日本芸術文化振興会「文化デジタルライブラリー」 (www2.ntj.jac.go.jp

text: Miyu Narita illustration: Minoru Tanibata
Discover Japan 2022年7月号「沖縄にときめく/約450年続いた琉球王国の秘密」

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