《琉球料理 美榮》が受け継ぐ
琉球王国のおもてなし
前編|沖縄の美味のルーツを探る
琉球王国は、中国や日本など外国からの賓客を料理でもてなしてきた。そこで発展した宮廷料理をいまに受け継ぐのが、那覇の料理店「琉球料理 美榮(みえ)」だ。艶やかな漆器に盛られた数々の料理は、沖縄の食の原点を語っている。
前編では、沖縄の美味のルーツである琉球料理の歴史と、美榮が受け継ぐ伝統に迫る。
琉球王家の美食家ゆかりの琉球料理が味わえる
1879(明治12)年まで約450年続いた琉球王国。中国をはじめ、日本、朝鮮、東南アジア諸国との外交が盛んで、諸外国の使節団を招いて宴でもてなし、交流を深めていった。肉、昆布、田芋、グルクン……。島の素材や交易でもたらされた素材を使った料理は、特に中国と日本の影響を受け、いつしかそれらが融合し、琉球独自の料理が発達していく。端正に整えられた料理が彩る東道盆は、そんな宮廷料理を象徴する料理のひとつである。
蓋付きの大きな漆器に繊細な装飾が施された東道盆。「東道」とは中国で「主人となってお客をもてなす」という意味で、東道盆はお客を接待するときのごちそうを盛る漆器と、その料理の両方を指す。六角、八角、丸形などがあり、蓋を開けると中は奇数に仕切られ、酒の肴に向く料理が美しく盛られた。
宮廷や上流階級での正饗である「三献」では、酢の物や汁物がのる「一の膳」、ご飯と豚肉料理がのる「二の膳」と続き、次の「三の膳」の手前で東道盆が供され、ここでようやく酒が登場する。東道盆はつまり、酒肴の盛り合わせの役割を担った。琉球ではまず料理でお腹を満たしてから酒が振る舞われたというのも興味深い。東道盆はほかにも、中国皇帝や江戸幕府への献上品として用いられたり、王家の人たちが遠出をする際に携えたりもしたようだ。
明治に入って王制が廃止されると、王族関係者は民間に下った。それに伴い、宮廷料理は民間に伝わり、その一部は行事や祝い料理の中でいまに受け継がれている。
そんな宮廷料理を味わえるのが、那覇で66年続く「琉球料理 美榮」だ。創業者の古波蔵登美は首里の金城生まれ。かつて王国に仕えた士族たちが慎ましやかに暮らす町で、そこに伝わる料理を母に習う。戦後の沖縄で医師の夫と死別。自分の生きる道として料理店をつくり、琉球料理の研究を続けた。美食家だった琉球最後の国王・尚泰侯爵の第四王子・尚順男爵を通して知る宮廷料理はそのベースになっている。
登美の兄はエッセイストとして知られる古波藏保好。著書『料理沖縄物語』には、第二次大戦前後の沖縄の家庭の味、尚順男爵家で飲んだ古酒のこと、そして妹の登美がどのように店の献立を整えていったかなどが記され、料理の向こうに沖縄の女性の姿が見える。
美榮の琉球赤瓦の門をくぐり、打ち水で清められた路地を抜けて部屋に通されると、自然と背筋が伸びる。2階建ての一軒家に6つも客間があり、コース料理をゆっくりといただける。
登美や保好が収集した沖縄の工芸品が随所に飾られ、美しい琉球漆器のうつわが使われる店は小さな博物館のようだ。
登美は料理店をはじめるにあたり、宮廷料理だけではなく、家庭や農家に伝わる料理にも目を向けたそうだ。古い文献をあたり、母から習った家庭料理を自らの工夫で洗練された料理店の一品に仕上げていった。お膳に数品の料理を並べる昔ながらの膳立てをあらため、一品ずつ味わい、温かい料理は温かいうちに食べてもらえるよう、琉球料理のもてなしを近代化した。やがて美榮の料理は食通の間で知られるようになり、数々の文化人が足を運んだという。そこには山下清、岡本太郎、向田邦子らの姿もあった。
琉球料理は下ごしらえに多大な手間と労力をかけるのが特徴だ。「手間を惜しまず、美味しさをそのままに美しさと食べやすさを加える」。登美が大切にした料理は、3代目の古波蔵德子さんに、そして5年ほど前から料理長として暖簾を守る平川浩司さんに、そっくりそのまま受け継がれている。
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<琉球文化を伝える工芸品やしつらえ>
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text: Yukie Masumoto photo: Wataru Oshiro
Discover Japan 2024年7月号「沖縄」