平均寿命30~40年の時代に長寿を証明
『養生訓』著者・貝原益軒の
なが~い人生
人生100年時代を生きるヒントは、すでに江戸時代の健康指南書『養生訓』に記されていた。著者の貝原益軒が生涯をかけて実践した養生の道。益軒の人生からは、養生訓の教えが見えてくる。そんな彼の生い立ちを現役医師であり『養生訓』を編訳した奥田昌子さんに教えていただいた。
監修=奥田昌子(おくだ まさこ)
京都大学博士(医学)。内科医。「日本人の体質を踏まえた、日本人のための健康法」を追求する中で予防医学にたどり着き、いままで30万人近くの診察・診療を行う。著書に『病気にならない体をつくる 超訳 養生訓 エッセンシャル版』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)など多数。
逆境を探究の力へと変えた
病弱な幼少期

福岡藩の祐筆役(書記)である父・寛斎と、豊前の武家出身の母・ちくとの間に生まれた貝原益軒。何不自由ない武士階級の暮らしの中で、自らの病弱さと母との別れは、彼を養生の探究へと駆り立てるきっかけとなった。
「5歳で母が亡くなっているだけでなく、13歳のときには継母の死も経験しています。聡明な少年だった益軒にとって、母と継母の死は心に大きな影響を与えたと考えられます。だからこそ、生命とは何か、健康とは何かという問いが、幼少期から頭の中に自然と描かれていたのかもしれません」と奥田さん。
儒学や医学の心得をもつ父は、彼にとって人生最初の師。父から薫陶を受け、健康への願いを糧に医学・薬学の書に没頭する。そこにはすでに、『養生訓』の核ともいえる彼の人生観が芽生えていた。
不遇の時期を肥やしとし
遅咲きの知の巨人へ

益軒を語る上で忘れてはならないのが浪人時代だ。藩主・黒田忠之の怒りに触れ職を失った益軒は、医師を目指して長崎へ向かう。「20歳から26歳までと浪人時代が長いんですよね。その後、お父さまの口添えで医師として福岡藩に仕えることになりますが、当時すでに優秀だった益軒は、儒学を学ぶために藩のお金で京都に遊学します。一流の学者たちと交流する機会を得たこの時期は、後に養生訓をまとめ上げていく上で大きな糧になったのだと思います」
17世紀の日本が生んだ知の巨人・貝原益軒。多彩な学問に精通したことから、現在は「日本のアリストテレス」とも称される人物だが、意外にもその人生が花開くのは中年期以降だ。
「40代から新しいことをはじめるのは現代でも悩ましいものですが、益軒は非常に長いスパンで人生を俯瞰していたように思います」と、平均寿命が30~40年の当時においては、“超”がつくほどのスロースターターだった。病弱だった幼少期は、すでに過去のもの。無類の旅好きであった益軒は、藩命・私事を問わず各地を歩き回り、見聞を広げていたという。

益軒77歳。ここで号を「損」軒から「益」軒へとあらためたのは、ウィットに富んだ彼のキャラクターを表している。養生訓は83歳で出版したが、それは自身の死期を悟って執筆したものではない。「新しい気持ちで日々を積み重ね、気づけば80代になっていたのかもしれません。おそらく以前から多くの人に長寿の秘訣を問われていたので、それならば書物に残しておこうと考えたのでしょう」と奥田さんは推測する。正確な死因は不明ながらも、大病を患うことなく天寿を全うした益軒の生涯。そこには、現代人が望む“健康長寿”の秘訣が隠されている。
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ポジティブシンキングな
益軒の生涯を振り返る

福岡藩の儒学者、本草学者。左図は京都の画家・狩野昌運が描いた65歳の益軒の読書図。彼の人生で最も充実した時期の姿であり、生涯を通じて読書と著述に励んだ人となりが色濃く伝わってくる
『貝原益軒肖像画』貝原家所蔵/画像提供=中村学園大学メディアセンター(図書館)
| 1630年 | 貝原益軒、福岡藩の福岡城内で誕生 |
| 1635年 | 母・ちくが死去 |
| ~1647年 | 父や兄から儒学や医学を学ぶ |
| 1648年 | 福岡藩2代藩主・黒田忠之に仕える |
| 1650年 | 忠之の怒りに触れ浪人となる 以後、長崎・江戸・大坂・京都に遊学する |
| 1656年 | 3代藩主・光之から声がかかり、復職し、藩の中心学者として活躍していく |
| 1657年 | 藩命により、京都へ遊学し、松永尺五・山崎闇斎・木下順庵ら儒学者と交流 |
| 1660年 | 江戸で幕府の儒学者・林鵞峯らと交流 |
| 1661年 | 京都で農学者・宮崎安貞らと交流 |
| 1662年 | 福岡藩に帰藩 |
| 1664年 | 3代藩主・光之から150石の知行地を与えられる |
| 1665年 | 京都で儒学者・伊藤仁斎らと交流 最初の出版物『易学提要』、『読書順序』を著す 父・寛斎が死去 |
| 1668年 | 初(後の東軒)と結婚。知行地が200石に |
| 1671年 | 光之に『黒田家譜』の編纂を命じられる |
| 1675年 | 江戸で幕府薬園を見学 |
| 1678年 | 『黒田家譜』が完成し、光之から白銀50両を与えられる |
| 1681年 | 老齢により、駕籠に乗ることが許される |
| 1682年 | 朝鮮通信使を応接 |
| 1684年 | 幕府から黒田長政の事跡調査の命が下る |
| 1688年 | 佐賀藩との国境争論の対応を命じられる。その後、江戸へ上り、本草学者・稲生若水や医者・黒川道祐らと交流 |
| 1689年 | 長兄・家時が死去 |
| 1690年 | 還暦を迎え、近親者に祝われる |
| 1692年 | 京都で公家と交流 |
| 1694年 | 『花譜』を出版 |
| 1695年 | 辞職を願うが却下される。次兄が死去 |
| 1696年 | 知行が300石に |
| 1700年 | 辞職を許される。以降は著述業に専念する |
| 1702年 | 末兄・楽軒が死去 |
| 1703年 | 『筑前国続風土記』を4代藩主・黒田綱政に献上 |
| 1704年 | 『菜譜』を出版 |
| 1709年 | 『大和本草』を出版 |
| 1710年 | 『和俗童子訓』を出版 |
| 1713年 | 『養生訓』を出版。妻・東軒が死去 |
| 1714年 | 益軒、死去 |
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text: Discover Japan, Ryosuke Fujitani, Natsu Arai photo: Kazuya Hayashi illustration: Minoru Tanibata
2026年6月号「ウェルネス入門」































