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アドベンチャーツーリズムの元祖
日本三霊山を学び歩く【Part 1|富士山】

2024.9.9
<small>アドベンチャーツーリズムの元祖</small><br>日本三霊山を学び歩く【Part 1|富士山】

日本三霊山である富士山・立山・白山。古来から続く山岳信仰は、アドベンチャーツーリズムの元祖だ。
 
今回は、日本の最高峰にして山岳信仰の中心地である富士山を紹介する。

監修・文
鈴木正崇(すずき まさたか)

1949年生まれ。慶應義塾大学名誉教授、日本山岳修験学会会長。民俗宗教、祭祀芸能、民族生成の比較研究、民俗社会を中心とする日本文化論などを専門としている

「日本三霊山」はいつ生まれた?

全国1300社の浅間神社の総本社で、富士山の表口の登拝口に鎮座する富士山本宮浅間大社。806年に坂上田村麻呂が遷座と伝わる。境内の湧玉池の湧水は信仰の対象

富士山(ふじさん)・立山(たてやま)・白山(はくさん)は日本を代表する霊山である。江戸時代には「三山」、「三つ山」、「三岳」と呼ばれ、三山を巡拝する「三禅定(さんぜんじょう)」も行われたが、三霊山の記述はなく発生は近代とみられる。浅地倫(あさぢひとし)が『立山権現』(1907)で「日本帝国の三霊山」と記したのが早い。一般に広まるのは昭和時代で、竹島立峯が『昭和の理想と立山の御詠(ごえい)』所収「日本三霊山の存在意義」で、越中おわら節の「越中で立山 加賀では白山 駿河の富士山 三国一だよ」を「日本三霊山」と解釈して立山の存在意義を説いたことで広まった。本書は1924年に摂政宮(後の昭和天皇)が富山県に行幸し、翌年の歌会始(うたかいはじめ)で立山を詠んだ歌「立山の空にそびゆる雄々しさにならえとぞ思ふ御代の姿も」を、富山県が岡野貞一に作曲を依頼し、’27年5月2日に立山雄山の頂上直下三ノ越の巨岩に「御詠」を刻んだ歌碑を建立したことを寿(ことほ)ぐ記念出版であった。雄山の峯本社は「日本三霊山立山登山」の御札を信者に配布した。「三国一の富士の山」に立山・白山を組み込んだ「三霊山」は、越中を中心に次第に広まっていったのである。

世界遺産にもなった富士山の信仰

『絹本著色富士参詣曼荼羅図』富士山本宮浅間大社蔵
幕府の御用絵師の2代目・狩野元信が描いたとされる室町時代後期の富士参詣曼荼羅。村山口からの登拝道を松明(たいまつ)をつけて登る道者の姿が描かれ、信仰登山の隆盛を伝える

富士山は標高3776m、日本最高峰である。富士山は、独立峰で雪を頂き、四方のいずれからでも均整の取れた山容を見せ、秀麗な山容の美しさで人々を魅了する。富士は古くは不死・福慈とも記され、蓬莱山(ほうらいさん)とも呼ばれ、神仙思想の影響が色濃い。

富士山は山中に川をもたない。降り積もった雪は山麓に豊富な水流として湧き出して、人々に恵みをもたらす。南麓の湧玉池、西麓の白糸ノ滝、北東麓の忍野八海(おしのはっかい)、北麓の富士五湖などは信仰の対象である。他方、富士山は火山活動が活発でたびたびの噴火で人々を恐怖に陥れてきた。表口の富士山本宮浅間(せんげん)大社の奥に鎮まる山宮は、溶岩流が止まったところにあり噴火を止める祈願がされたと推定される。拝殿・本殿はない。北口の河口浅間(あさま)神社も同様で、864年の大噴火のときに溶岩流が止まったところに社を建てたとされる。「アサマ」は火山の意味である。富士山には恵みをもたらすとともに脅威を与える二面性が顕著である。

『万葉集』に載る山部赤人(やまべのあかひと)の歌「田子の浦ゆうち出てみればま白にそ富士の高嶺に雪は降りける」は名高い。当時は噴煙を上げる富士を恐れ敬っていた。8世紀の火山活動は12世紀頃まで続き、本格的な登拝はそれ以後である。『本朝世紀』によれば、末代上人(まつだいしょうにん)が1149年に登って山頂に大日如来を祀り経典を奉納したという。1930年に三嶋ケ岳から経文(きょうもん)が発見され当時のものかと推定されている。別伝では聖徳太子が黒駒に乗って登ったとか、役行者(えんのぎょうじゃ)が伊豆から空中を飛んで修行したという伝説もある。

祭神は女神とされる。東山麓の須山や北西の江原から古い女神像が出ている。中世の縁起によれば、かぐや姫が山頂に登って仙女となり祭神として祀られたという。中世は神仏混淆で本地垂迹(ほんじすいじゃく)に基づき本地仏は大日如来、垂迹の神は富士浅間大菩薩とされた。山頂は三尊仏(薬師・阿弥陀・大日)に見立てられ、火口の周囲は八葉蓮華とされ、中央を大日如来とする八葉九尊に見なされた。近世には祭神は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)になって現在に至る。

富士山の修験は南麓の村山が中心で、開山の末代上人を大棟梁権現と崇めて、村山三坊の大鏡坊、池西坊・辻之坊を総称して興法寺(こうぼうじ)とした。14世紀以降、村山を根拠地にして山岳修行が盛んになり、「富士峯修行」として、村山から山頂に登り、山麓をめぐる1カ月にわたる修行を行った。村山口登拝の様相は『絹本著色富士参詣曼荼羅図』(16世紀)に描かれている。

登拝道は、南麓の表口の村山と大宮、東南麓の須山、東麓の須走、北麓の吉田と河口があり、登拝口には浅間神社が祀られている。近世には江戸を中心に富士講が組織され中山道(なかせんどう)を経て登拝する道者が増えて、吉田に多数の宿坊が成立し、御師(おし)が道者の祈禱・宿泊・案内をして栄えた。富士講とは、角行(かくぎょう)を始祖とする富士行者の6世、食行身禄(じきぎょうみろく)が男女平等・職業勤勉を説いて富士登拝を勧めて以後、爆発的に増えた。文献上の初見は1795年である。1805年には江戸八百八講といわれた。富士講は御身抜(おみぬき)という呪符の掛軸を本尊として祀り、集会では富士山型の線香護摩を焚いた。江戸には富士山を小型化した富士塚が築かれ、毎年旧暦6月1日には女性・子ども・年寄りが登り富士登拝同等のご利益が得られるとされた。

富士講は関東や東海、伊勢志摩でも組織された。明治以降は神仏分離で浅間神社が祭祀を執り行う。全国で1300社、本社は表口の富士山本宮浅間大社である。2013年には世界文化遺産「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」に登録され、多くの登山者で賑わう。

<おすすめの登山ルート>

外輪山は八葉蓮華とされ火口中央に鎮座する大日如来と併せて八葉九尊として信仰された。お鉢めぐりで外輪山をめぐる

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text: Masataka Suzuki illustration: Kento Iida
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