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京都で“どうした家康”【後編】
徳川家康・明智光秀の面影をたどる旅

2023.3.18 PR
京都で“どうした家康”【後編】<br>徳川家康・明智光秀の面影をたどる旅

徳川家康とゆかりの深い土地といえば、まずは江戸と回答する方が大多数。もしくは、静岡県の駿府や、愛知県の岡崎を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。しかし、それは思い込みだったかもしれない。家康の生涯を追っていくと見えてくる、家康と京都の深いかかわりを、作家・柏井壽さんが京都人ならではの目線でひも解いていく。

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数々の変遷をたどった「伏見城」

参道脇に置かれた石は、かつての伏見城の石垣。水道工事の際に偶然発掘されたもので、御紋が記されているものもある

まずは何をおいても伏見城だ。とは言え、残念ながらその城はいま、影もかたちもなくなってしまっている。秀吉から家康へと城主が移った伏見城跡。かつてここに伏見城が建っていた、と想像するしかない。いまここは明治天皇が眠る伏見桃山陵となっているが、地形はおそらく城が建っていたころと変わっていないはずだ。小高い丘陵の南にたおやかな御陵があり、かつて城があった頃に思いを馳せる。振り向いて、長い石段の上から下界を見下ろせば、南向きのパノラミックな絶景が広がる。感慨深くこの眺めに目を細めていた天下人は秀吉だけだと思っていたが、家康もまた同じ眺めに思いを深めていたのだ。宇治川、木津川、その南には命からがら逃げ延びた伊賀越えの道筋がある。そして木立に隠れた右手には山崎、天王山と天下分け目の地がある。秀吉の後を受けて伏見に天守を築いた家康の胸中やいかに。訪れたのは、春まだ浅き日なのに暖かな日差しが降り注ぎ、洛中に比べてずいぶん温暖な気候だ。どんな城が建っていたのか、ひと目だけでも見ておきたかった。

ふと思い出したのは、かつてこの御陵から少し北、伏見桃山にあったレジャーランド。廃園にはなったが、秀吉時代の伏見城を模したレプリカ城は残され、いまもその姿を見ることができる。これを見慣れているせいで、伏見城は秀吉、と刷り込まれていたのかもしれない。関ヶ原の戦いで勝利した家康が、焼失していた伏見城を再建し、その城で征夷大将軍の宣下を受け、それ以後3代徳川家光まで伏見城で将軍宣下式を行っていた。つまりはここに幕府が置かれていたも同然ということになる。城があれば当然ながら城下町もあったわけで、伏見は都市機能も備え、当時は日本有数の城下町として大いに栄えたそうだ。その中には銀貨を鋳造する場所である銀座も置かれ、すなわち伏見は銀座発祥の地でもあるのだから、当時はどれほど繁栄していたかがわかる。伏見を経済の中心地として発展させただけでなく、外交の場としても伏見を活用したのが家康だったと聞いて、また認識を新たにした。

慶長10年の春、家康は伏見城で朝鮮使節と会見し、和議を成立させる。これはいわば秀吉が行った朝鮮出兵の後始末なのだが、それを伏見で行ったことが興味深い。あえて伏見城で会見したのは秀吉を意識してのことではないだろうか。秀吉が築いた城を引き継ぎ、秀吉が残した負の遺産を清算する。それを天下に知らしめるために伏見城という場を選んだ、というのはうがち過ぎだろうか。いずれにせよ、家康は征夷大将軍に就任してから、江戸城と伏見城を行き来し、江戸城より伏見城にいた日数のほうが多かったというのだから、江戸幕府の初期を伏見幕府と呼んでも間違いではない。

明治天皇の陵墓・伏見桃山陵。かつては伏見城があった
伏見桃山陵の大階段から街を見下ろす

伏見桃山陵
住所|京都府京都市伏見区桃山町古城山
Tel|075-601-1863
参拝時間|8:30~17:00
定休日|なし
参拝料|無料

秀吉時代の伏見城を模した天守。写真は小天守にしゃちほこがあった当時のもの

伏見桃山城
住所|京都府京都市伏見区桃山町大蔵45

伏見城の名残をとどめる「御香宮神社」

極彩色の彫像や絵画、文様で埋め尽くされている「御香宮神社」の本殿。1605(慶長10)年、徳川家康が命じて造営したもので、日光東照宮などの装飾建築の先駆けとされる

伏見にはもう1カ所、家康ゆかりの場所があると聞いて訪ねてみた。それが「御香宮神社」である。創建の詳細は不明とされるほど古い神社だが、境内に香り高き水が湧き、病にも効能があることから、時の清和天皇が御香宮と名づけたという。秀吉はこの社を鬼門守護のために、伏見城下北東に移築したが、後に家康がこの地に戻したのだそうだ。境内には家康を祭神とする東照宮も造営され、徳川義直、頼宣、頼房はこの御香水を産湯として使ったと神社で言い伝えられているのだから、まさに徳川ゆかりの神社である。京都で“どうした家康”。家康は洛南伏見の地で、江戸幕府の下絵を描き、長く平和が続く江戸時代への橋渡しを行った、というのがその答えだ。
安土桃山時代といわれ、信長と秀吉ばかりに目が行きがちだが、桃山という言葉は秀吉存命の頃にはなく、伏見城が廃城になってから、元禄頃までに桃の木が植えられたことから名づけられたという。この神社の片隅にも、明治天皇伏見桃山陵の参道にも、伏見城の石垣に使われた石が残されている。その石は伏見の歴史を間近にしていたのだろうが、そこにはきっと家康の雄姿も映っていたに違いない。家康は京の恩義を伏見で返したのだった。

「御香宮神社」の大手門。徳川家康が築城した伏見城の大手門を、家康の11男・水戸藩祖の頼房が移築したと伝わるもので、国の重要文化財に指定されている
拝殿。1625(寛永2)年、紀伊藩初代藩主・徳川頼宣によって寄進されたもの
境内に残る伏見城跡残石

御香宮神社
住所|京都府京都市伏見区御香宮門前町174
Tel|075-611-0559
拝観時間|授与所9:00~16:00、石庭9:00~15:45(最終入場)
定休日|不定休
拝観料|境内無料、石庭拝観料は大人200円
https://gokounomiya.kyoto.jp/

足を延ばして明智光秀ゆかりの地へ

世間一般では本能寺の変を起こした逆臣、三日天下というイメージをもたれがちな明智光秀。しかし、京都・丹波の地で町の基礎を築いた光秀の力は天下統一に貢献したとも考えられる。亀岡市や福知山市では、光秀が築城し、江戸時代まで続いた城の跡が残る。京都市内から足を延ばし、光秀ゆかりの地を訪れてみては。

1577年頃、明智光秀が丹波攻略の拠点とするために丹波亀山城を築城。豊臣期の拡張と、関ヶ原の戦後に惣堀・内堀の建設が行われたとされる。さらに、徳川家による築城は、5層の層塔型天守を築くなど、その内容は丹波亀山城を大きく変貌させる大規模なものだった。

丹波亀山城跡(宗教法人 大本本部)
住所|京都府亀岡市荒塚町内丸1
Tel|0771-22-0691(JR亀岡駅観光案内所)
見学時間|9:30~16:00(受付は15:30まで)
定休日|なし
拝観料|大本神苑拝観券300円

1579年に丹波を平定した明智光秀が築城した福知山城。築城当時から残る個性豊かな石垣など見どころが多い。天守閣内部では明智光秀や歴代城主に関する資料や映像を展示。明治初期に取り壊されたが、市民の熱意により現在の天守閣が復元された。

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福知山城
住所|京都府福知山市内記5
Tel|0773-24-7033
開城時間|9:00~17:00(入館は16:30まで)
休城日|火曜、12月28~31日、1月4~6日
入城料|大人330円
https://www.fukuchiyamacastle.jp/

 


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edit : Hiroko Yokozawa photo: Azusa Todoroki

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