夏の阿寒湖で豊かな自然とアイヌ文化に触れる旅【前編】
阿寒湖の夏は短い。そのわずかな時間、森には緑が溢れ、生き物たちは夏を謳歌する。そんな阿寒湖の夏に触れるため、ライターの大石始さんと写真家の鈴木優香さんが現地を訪れた。阿寒湖でつくり出されている新たなアイヌ文化に触れながら、夏の魅力を味わう5日間。前編では阿寒湖におけるアイヌ文化の担い手たちにも取材を行った大石さんのレポートをお届けする。
〈今回旅した人〉
大石 始(おおいし はじめ)
音楽や祭りなど各地の地域文化を追うライター。旅と祭りの編集プロダクション「B.O.N」主宰。主な著書に『盆踊りの戦後史』(筑摩書房)、『奥東京人に会いに行く』(晶文社)、『ニッポンのマツリズム』(アルテスパプリッシング)、『ニッポン大音頭時代』(河出書房新社)など。現在、屋久島古謡に関する著作を執筆中
鈴木優香(すずき ゆか)
東京藝術大学大学院修了後、商品デザイナーとしてアウトドアメーカーに勤務。2016年より、山で見た景色をハンカチに仕立ててゆくプロジェクト「MOUNTAIN COLLECTOR」をスタート。現在は山と旅をライフワークとしながら、写真・デザイン・執筆などを通して表現活動を続ける
夏の阿寒湖を訪れたのははじめてのことだった。到着した日の気温は20度以下。灼熱の東京からやってくると、天国のような涼しさだ。
この季節の阿寒湖の美しさに触れたければ、約85分をかけて阿寒湖を一周する遊覧船に乗るのが手っ取り早い。厳しい冬を超えてきた木々はどこか精悍(せいかん)で逞しさがある。よく見ると白いシャクナゲがちらほら咲いていて、素朴な野花の美しさに目が惹きつけられた。
アイヌ文化の担い手たちが語る阿寒湖とは
今回の滞在では阿寒湖におけるアイヌ文化のリーダー、秋辺デボさんに話を伺う機会に恵まれた。8月初旬、札幌では東京2020オリンピック競技大会のオープニングイベントとしてアイヌ舞踊が披露されたが、デボさんはその舞台の総監督を務めた。
阿寒湖でアイヌとして生まれたデボさんがアイヌ文化に目覚めたのは13歳のとき。村人たちが演じるユーカラ演劇「アイヌラックル伝」に感激し、アイヌ文化を受け継ぎ、伝える者として生きることを決意したという。現在は阿寒湖アイヌシアター「イコㇿ」のプロデューサーも務めている。
そんなデボさんは、「阿寒湖を訪れる観光客に何を感じてほしいですか?」というこちらの問いに対し、こう答えてくれた。
「よく考えると自然保護って傲慢な考えなわけで、人間こそが自然に保護されている。アイヌも自然の恵みをもらって生活しているわけで、阿寒のアイヌ文化に触れて、そのことを少しでも分かってもらえるといいよね。違う土地の違う文化に触れ、自分たちの立ち位置を確認してもらうというのが旅の醍醐味だし、こちらもそういうことをちゃんと提供できなきゃいけないと思っている」(秋辺デボさん)
デボさんがプロデュースする阿寒湖アイヌシアター「イコㇿ」は、デボさんの思いがかたちになった劇場だ。現代に生きる人間として、いかにアイヌ文化の精神を表現することができるのか。「火のカムイの詩」や「ロストカムイ」といった演目ではデジタル技術がふんだんに使われる一方、「アイヌ古式舞踊」ではアイヌの儀式空間が再現される。そんな「イコㇿ」の踊り手の方々に話を聞いた。
「お客さまに感謝の気持ちなどが伝わるよう踊れると一番いいかなと思っています」(平久美子さん)
「時期によってはお客さんの多いときと少ないときがあるんですね。でも、踊りはカムイ(神)に捧げるもの。お客さんが多かろうが少なかろうが関係ないということを教わりました」(毛房千夏さん)
踊りをはじめた経緯はさまざま。アイヌの男性と結婚して踊りをはじめた方もいれば、もともと道外でジャズやコンテンポラリーダンスをやっていて、アイヌ文化に対する関心から阿寒湖にやってきた方もいる。
KARINさん「私は東京から4カ月間踊りにきてたんですが、その間に阿寒湖が好きになってしまって。大切なことを教えてくれる気がして、それで移住してしまったんですよ」
移住するほど阿寒湖に惚れ込んでしまった?――そう尋ねると、KARINさん「はい、大好きです(笑)」とまっすぐに答えてくれた。
静寂こそが最高の贅沢
阿寒湖ではアイヌ文化に触れるさまざまなアクティビティが行われている。阿寒湖の自然散策とものづくりを楽しむガイドツアー「Anytime, Ainutime!」もそのひとつだ。ガイドを務めるのは、木彫作家としても活動する瀧口健吾さん。彼は阿寒湖の森を知り尽くしたエキスパートだ。
森に入る前、健吾さんはカムイ(神)に向かってオンカミ(拝礼)を行う。アイヌの祭具であるイナウを地面に刺し、塩と米、刻みタバコをカムイに捧げる。
森に入ると、健吾さんはかつてのアイヌが森の恵みをどのように自身の生活に取り入れてきたのか、一つひとつ説明していく。たとえば、エゾウコギの実は民間薬となり、木々を加工しては民具をつくった。
「ほら、これがエゾジカが角をこすりつけた跡なんですよ」
健吾さんはそう言ってハンノキの一部を指さした。そこには木の表面が削り落とされたような跡が残っていたが、健吾さんに言われなければそれがエゾジカによるものだとは気づかないだろう。
今回の滞在中、早朝の阿寒湖でカヌーを漕ぐツアーにも参加した。人の話し声や車のエンジン音、蝉の鳴き声すら聞こえてこない静寂。聞こえてくるのは、ぽちゃぽちゃとパドルが水を切る音だけ。まるで一切の生命体が存在しないかのような世界だが、湖の底にはさまざまな生命が生き生きと共存している。
夏の阿寒湖では、あらゆる生命がいのちを滾(たぎ)らせていた。それも、ひっそりと、静かに。
第1回|大自然とアイヌ文化に出合う夏 前編 後編
第2回|秋は祭りや儀式で阿寒湖をより深く体験 前編 中編 後編
第3回|冬の阿寒湖でアイヌ文化と豊かな風土にふれる 前編 後編
text=Hajime Oishi photo=Yuka Suzuki