夫婦愛が起こした奇跡
「傾城反魂香」又平とお徳
おくだ健太郎の歌舞伎キャラクター名鑑
名作歌舞伎を彩る個性豊かなキャラクターを、歌舞伎ソムリエのおくだ健太郎さんが紹介。今回取り上げるのは、夫婦愛が起こす奇跡を描く「傾城反魂香」に登場する絵師の又平とその妻・お徳です。
おくだ健太郎
歌舞伎ソムリエ。著書『歌舞伎鑑賞ガイド』(小学館)、『中村吉右衛門の歌舞伎ワールド』(小学館)ほか、TVなどで活躍。http://okken.jp
日本画の世界と武家のお家騒動をからめたお芝居です。狩野派、土佐派など、名門の絵師が何人も登場します。
でも作品全体の中で一番魅力的な活躍をするのは、そういう有名な画家たちではなく、又平という朴訥な庶民の絵描きと、その女房・お徳です。手を取り合って自分たちの力で、幸福をたぐり寄せていく誠実な夫婦なのです。
土佐派の立派な絵師の弟子である又平。絵の腕前も大したものなのですが、生まれつき「吃音」に悩み、引っこみ思案。才能がなかなか開花しません。街道沿いで「大津絵」という素朴なざれ絵を描いては商い、しがない暮らしを続けています。
彼の夢は、師匠と同じ「土佐」の苗字を名乗って、正式な門弟に認めてもらうことです。でも、師匠が色よい返事をしてくれません。「お前には下卑た大津絵が似合っている」の一点張り。弟弟子にも先を越され失望感ばかりが募っていきます……。
僕が見ていていつも思うのは、芝居の前半では又平自身にも「土佐の苗字を、絶対に認めてもらうんだ」という気迫が、どこか欠けてるんです。言葉を話すことにコンプレックスがある彼は、この願いを師匠に伝えるときも、自分の代わりに奥さんに言ってもらう。「と、と、とさの苗字を……」とつっかえてしまうことに負い目があるのでしょう。
そんな又平が大きく変わるのは、幕が開いて30分は過ぎたあたりでしょうか……つっかえてもつっかえても、なりふり構わず自力で師匠に伝えようとする場面が出てきます。この芝居で又平がはじめてせりふを言うくだりです。
この場ですぐには、師匠に受け入れてはもらえません。でも、間違いなく彼のターニングポイントです。「お願いっ!」の最初の一言はまるで、何かに突き刺さるような鋭さで、又平の口を飛び出てきます。
いくら願っても認めてもらえない土佐の苗字……絶望した又平は、師匠の家の庭の手水鉢の側面に、この世の名残りの自画像を描きます。描き終えたら、夫婦を揃って自害するつもりで……と、不思議や不思議!
絵筆にこもった又平の気合、魂は、その自画像を、ぶ厚い石の手水鉢の、描いたのとは反対側の面まで、貫かせてしまう。「でかした!」と師匠は、ついに、土佐の苗字を又平に与えるのです。
本気でぶつかっていくことの、尊さと美しさを、教えてくれる芝居です。
text=Kentaro Okuda illustration=Akane Uritani
2019年4月号 特集『ニッポンの新たな時代、どうつくる?』