TRADITION

江戸時代、歌舞伎役者はスーパースターでした。

2020.8.15
江戸時代、歌舞伎役者はスーパースターでした。
(太田記念美術館蔵)

“スーツ歌舞伎”とも言われている人気ドラマ『半沢直樹』の中で注目を集めているのが、市川猿之助さんや尾上松也さん、片岡愛之助さんをはじめとする歌舞伎役者たち。彼らのルーツとなる歌舞伎役者たちもまた、江戸時代ではスーパースターでした。いまは亡き名優たちの姿を、浮世絵を通して見てみよう。

監修者
渡邉 晃さん
太田記念美術館学芸員。専門は浮世絵(役者絵)。「美しい色と描線で、当時の江戸の様子を鮮やかに伝えているところが魅力です」

役者絵は舞台のベストショット

俳優の浮世絵は、いわば当時のブロマイドやポスター。俳優の人気と絵師の人気が相まって、飛ぶように売れた。

渡邉「最初に主流だった鳥居派の絵師は、俳優が違っても同じような顔で描いたので、画面に描かれた紋や俳優名で見分けるしかありませんでした。やがて、俳優の顔を写す、似顔絵を描きはじめた勝川春章と勝川派が大人気に。次は歌川豊国が台頭し、歌川派の浮世絵が人気を独占します。それぞれタッチが違いますが、役者絵は、俳優の最も魅力的な瞬間をとらえたもの。どの絵師にも独自の魅力があり『この一枚』を選ぶのに苦労します」

役者絵は舞台のベストショット。今は亡き名優たちの姿を、見てみよう。 

大胆な表情と動きは絵にしても大迫力!
市川團十郎家【成田屋】

三代歌川豊国筆『古今役者似顔大全 市川家系譜』文久3年(1863年)
文化・文政期(1804~1830)から幕末にかけて絶大な人気を誇った絵師、三代歌川豊国晩年の代表作のひとつで、100枚余りからなるシリーズ。当時の歌舞伎の名跡を網羅して、初代から本作出版時までの各代の俳優たちを、伝記付きで紹介する俳優名鑑的な内容。(太田記念美術館蔵)

襲名が予定されている十三代目・團十郎(元・海老蔵)は、この市川家の御曹司。現代の團十郎もその父も、力強い目が印象的だったが、ご先祖様も、やはり目ヂカラがすごそうだ。

市川團十郎といえば、「荒事」のイメージ。荒事は衣装も大胆な絵柄で、隈どりをすることも多い。絵にしたときにも、ドドーンとその迫力が伝わってくる。堂々とした体つきや力を込めた腕の感じなどが、絵によく表れていて、チョーンという柝の音が聞こえそう。「イヨゥ、成田屋~!」と、声をかけたくなる。 

初代 市川團十郎
元禄期の歌舞伎人気を大いに高めた大俳優。荒事と呼ばれる大胆で荒々しい動きを見どころにとらえた芸を 確立し、市川團十郎家の礎を築いた。元禄17年、45歳のときに舞台上で俳優に刺殺される。

二代目 市川團十郎
先代の急死後、生島新五郎(のちに絵島生島事件で流罪)に師事し、お家芸の荒事に、生島から学んだ和事の芸の味わいを加え、独自の芸風を築いた。隈どりの様式を大きく発展させたといわれている。

八代目 市川團十郎
幕末に活躍。大変な男ぶりで大人気をとったが、32歳のときに旅先で自殺。理由は不明。その人気ぶりはつとに有名で、吐いたタン(つばきとも)を女性たちがお守りにしたなどの“伝説”が残っている。

九代目 市川團十郎 
歌舞伎を洗練された芸術に高めるよう努力したほか明治の劇界を、五代目尾上菊五郎や初代市川左團次らとともに盛り上げた功労者。「劇聖」とも呼ばれている。浅草寺の「暫」の銅像はこの人。

東州斎写楽筆『初代市川鰕蔵の竹村定之進』寛政6年(1794年)
写楽が寛政6年5月に突如発表した28枚揃のシリーズもののうち一点。「初代市川鰕蔵(前名五代目市川團十郎)」が描かれている。(太田記念美術館蔵)

市川鰕蔵 (前名は五代目 市川團十郎)
市川梅丸からはじまって、市川幸蔵、松本幸四郎、市川團十郎、市川鰕蔵と襲名していった。「鰕蔵」と名乗ったのは、尊敬する父の「海老」の字に遠慮したため。55歳で引退するが、息子の早世により3年ほどで舞台に復帰した。

歌川国貞(後の三代歌川豊国)筆『七代目市川團十郎の暫』文政(1818~1830年)頃
三代歌川豊国の若い頃の名前、歌川国貞による肉筆画(筆で直接紙や絹に描いたもの)。七代目市川團十郎を描く。筋隈、柿色の襖に白く染め抜いた三升の紋という定番のこしらえである。多作の絵師で、版画だけでも生涯に一万点は描いたといわれている。(太田記念美術館蔵)

七代目 市川團十郎
荒事を中心に市川團十郎家が得意の演目を18選び、後世に残る「歌舞伎十八番」を定めた人。豪快かつ色気のある芸風が江戸っ子の熱狂的な人気を呼んだが、水野忠邦の進める天保の改革で処分を受け、7 年も江戸を離れることになってしまった。

スケールも大きいがキャラも濃い名優たち
松本幸四郎家【高麗屋】

初代歌川豊国筆『三代目高麗蔵の佐々木巌流』寛政7年(1795年)
三代目市川高麗蔵は、のちの名優、五代目松本幸四郎の前名。五代目松本幸四郎は、鼻が高い容貌から「鼻高幸四郎」と呼ばれた。数十年の芸歴をもち、数多くの浮世絵に描かれている。本図は初代豊国の代表作のひとつ。(太田記念美術館蔵)

市川團十郎家と縁の深い松本幸四郎家。二代目松本幸四郎は、四代目市川團十郎を襲名し、のちに子に團十郎を譲った後、幸四郎に戻ったものの、今度は市川海老蔵に改名…と少々複雑。また四代目松本幸四郎は、いわゆる御曹司でも何でもない、芸の力で認められたノンキャリア組。我が強かったため五代目團十郎らとしょっちゅうケンカ。舞台で初代菊五郎とつかみ合いをやったこともあるとか。

 

三代歌川豊国筆『東海道五捨三次の内 品川 幡隋院長兵衛』嘉永5年(1852年)
五代目松本幸四郎を描いている。五代目松本幸四郎は天保9年(1838)に亡くなっており、本図は故人を偲んで描かれたもの。140枚からなるシリーズもので、故人を含めた人気俳優を、役柄にちなんだ東海道の宿場を背景に描いた作品。(太田記念美術館蔵)

五代目 松本幸四郎 (前名は三代目市川高麗蔵)
「実悪」と呼ばれるスケールの大きな悪人を演じれば、右に出るものはないといわれた名優。鋭い目つきと高い鼻が特徴的な顔立ちをしている。彼が舞台でぐっとにらむ見得を切ると、子どもがおびえて泣くとまでいわれた。

荒事の團十郎と好対照の優男
尾上菊五郎家【音羽屋】

歌川国貞(後の三代歌川豊国)筆『星の霜当世風俗(蚊焼き)』文政2年(1819年)頃
国貞の代表的な美人画のシリーズ。蚊帳の下に顔をのぞかせている団扇の絵に、当時の人気俳優、三代目尾上菊五郎が助六を演じる姿が描かれている。(太田記念美術館蔵)

幅広い役をこなす芸の力と、女形もいける姿の美しさで、代々人気を博してきた尾上菊五郎。現在もそうだが、菊五郎と市川團十郎は、似合いの一対として役を務め、相乗効果でもともと高い人気がさらに高まる、歴史の長いベストコンビ。それもそのはず、京都で女形を務めていた初代菊五郎、江戸から来た二代目市川 海老蔵(のちの二代目團十郎)の相手役で大ブレイク。海老蔵とともに江戸へ行って、さらに人気者になったのだ。

三代目 尾上菊五郎
七代目團十郎や五代目松本幸四郎らと、江戸歌舞伎を大いに盛り上げた一人。絶頂期に舞台を去り、餅屋を開いたものの、やはり舞台へと戻って大川橋蔵を名乗った。ちなみにドラマ「銭形平次」の主演を長く務めた大川橋蔵は、この二代目。

和事の魅力を江戸に持ち込んだ
澤村宗十郎家【紀伊国屋】

初代歌川豊国筆『三代目澤村宗十郎の大星由良之助』寛政7年(1795年)
三代目澤村宗十郎は天明・寛政期に活躍した名優。特に写楽、 豊国、春英ら寛政の浮世絵に数多く描かれている。初代豊国は本シリーズ「役者舞台之姿絵」で世に認められた。(太田記念美術館蔵)

伊勢の舞台から大阪を経て江戸へ来た澤村宗十郎。初期は「実悪」を演じていたが、やがて繊細な人情を演じる「和事」や「和実」(和事と実事の両面の要素をもつ)と呼ばれる役を演じるようになり、人気が高まった。これにより、その後も澤村宗十郎家の芸は、「和実」を中心としたものになっていく。上方風の柔らかい物腰とすっきりした容姿で、当時の女性たちのハートをわしづかみにしたのだ。

三代目 澤村宗十郎
必ず大入りになるといわれる演目『仮名手本忠臣蔵』。その主人公ともいうべき大星由良之助役は、澤村宗十郎家にとって、 初代からの当たり役。三代目宗十郎は、上方の芸と江戸の気分 を上手に取り入れ、家の芸をさらに発展させた人物なのだ。

芸も個性も高ポイントの逸話揃い
坂東三津五郎家【大和屋】

三代歌川豊国 『古今役者似顔大全 大和屋坂東系譜』文久3年(1863年)
先にも挙げたシリーズのうち一点。本図は大和屋系の坂東家の代々を描いたもの。名優として特に知られるのは三代目坂東三津五郎、四代目坂東三津五郎、そして、女形の初代坂東しうか(死後五代目坂東三津五郎の名が贈られる)など。(太田記念美術館蔵)

芸と男ぶりのよさで人気を博した初代、「江戸随一の和事師」といわれた三代目、人間国宝にもなったが、フグの毒にあたって死んだ八代目などなど、芸でもそれ以外でも話題性の高い人物が多い三津五郎家。

現在の三津五郎も、普段の彼がもつを博した初代、「江戸随一の和事師」といわれた三代目、人間国宝にもなったが、フグの毒にあたって死んだ八代目などなど、芸でもそれ以外でも話題性の高い人物が多い現在の三津五郎も、普段の彼がもつイメージとはまったく違う悪役で映画出演したり、現代劇、それも小劇場に出演するなど、意外な話題を提供することも。 代々の三津五郎の、特徴をとらえた絵を並べて見ると、さまざまな個性が「三津五郎家」に集まっているのを実感できる。

三代目 坂東三津五郎
初代三津五郎の子で、江戸随一の和事師といわれる。日本舞踊の坂東流の祖でもあり、踊りの名手として、三代目中村歌右衛門と芸を競っていた。絵は彼が得意とし、家の芸となった力士役「白藤源太」。

四代目 坂東三津五郎
のちに守田勘弥となった四代目三津五郎。30代くらいから中風(神経が侵され、手足が利かなくなる病気。脳血管障害の後遺症とも)で身体が不自由になったが、晩年まで芸を捨てずに舞台に立った。

初代 坂東しうか
三代目の養子。女形として活躍し、男顔負けの威勢のよい悪女を得意としていた。死後、五代目三津五郎の名を贈られる。ちなみに現代の女形の名優である「坂東玉三郎」という名は、この人が初代。

姿がよく口跡もよいが、事件も…
片岡仁左衛門家【松嶋屋・松島屋】

勝川春英筆『七代目片岡仁左衛門の師直』寛政7年(1795年)
勝川春英の作品。勝川派を創始した勝川春章は、役者似顔絵を創始した絵師の一人で、春英はその弟子。本図は七代目片岡仁左衛門の高師直。七代目仁左衛門は肥満体だが、芸の幅が広く口跡もよい名優。(太田記念美術館蔵)

初期の仁左衛門家は早世の人が多く、うやむやのうちに歌舞伎界から消えた人がいたりもしたが、この名を絶やさぬようにと守り伝えられてきた名家。主に立役を得意としてきたが、女形をこなした人も多い。現在の仁左衛門のような、すっきり細身の美男子ばかりと思いきや、ここに紹介する七代目は、貫録のある体格で、容姿に優れたという。意外かもしれないが、女形もこなす幅広い芸の持ち主だったのだ。

七代目片岡仁左衛門
一時は師匠から破門されたこともあるが、芸をあきらめることなく精進し、名人といわれるまでになった人。それまで長く絶えていた「片岡仁左衛門」の名の再興を認められたのも、努力で築き上げた実力と人気の賜物。時代物も世話物も得意とした。

ここから枝分かれして多くの名優が生まれた
中村歌右衛門家【成駒屋・高砂屋・加賀屋】

三代歌川豊国筆『四代目中村歌右衛門の舎人松王丸』文久3年(1863年)三代歌川豊国最晩年の代表作で、豪華な彫・摺で有名なシリーズのうちの一点。50年以上にわたって役者絵の第一線で活躍し続けた、三代豊国の集大成ともいえる作品。画面いっぱいに俳優の大首を描く。(太田記念美術館蔵)

中村歌右衛門家を元とする名家は多く、勘三郎家と富十郎家以外は、すべてこの歌右衛門家からはじまっている。金沢の医者の息子といわれる初代歌右衛門は、その実力を認められて、歌舞伎界のスターダムに駆け上がった人。作者として台本も書いたという。その子である三代目も、やはり俳優だけでなく作者としても活躍。女形も立役もこなす人気俳優だった。そうした幅広い芸のひとつを究めていったのが、中村家なのだ。

四代目 中村歌右衛門
体格がよく、立役を得意とした四代目歌右衛門。お茶屋の子に生まれ、藤間流の振付師に弟子入りしたところから、歌舞伎の道に入っており、異例の出世で名跡(代々受け継がれる名前)を受け継いだ。

いまもテレビや舞台などで活躍する歌舞伎役者たち。その系譜をたどり、代々受け継いできた、それぞれの家の芸や特色を知れば、見方が変わってくるかもしれません。

太田記念美術館で開催予定の展覧会
ニッポンの浮世絵
2020年11月14日(土)~12月13日(日)

text=Ichiko Minatoya photo=Ota Memorial Museum of Art
2010年2月号「はじめてのニッポンカルチャー」


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