江戸時代、歌舞伎役者はスーパースターでした。
“スーツ歌舞伎”とも言われている人気ドラマ『半沢直樹』の中で注目を集めているのが、市川猿之助さんや尾上松也さん、片岡愛之助さんをはじめとする歌舞伎役者たち。彼らのルーツとなる歌舞伎役者たちもまた、江戸時代ではスーパースターでした。いまは亡き名優たちの姿を、浮世絵を通して見てみよう。
監修者
渡邉 晃さん
太田記念美術館学芸員。専門は浮世絵(役者絵)。「美しい色と描線で、当時の江戸の様子を鮮やかに伝えているところが魅力です」
役者絵は舞台のベストショット
俳優の浮世絵は、いわば当時のブロマイドやポスター。俳優の人気と絵師の人気が相まって、飛ぶように売れた。
渡邉「最初に主流だった鳥居派の絵師は、俳優が違っても同じような顔で描いたので、画面に描かれた紋や俳優名で見分けるしかありませんでした。やがて、俳優の顔を写す、似顔絵を描きはじめた勝川春章と勝川派が大人気に。次は歌川豊国が台頭し、歌川派の浮世絵が人気を独占します。それぞれタッチが違いますが、役者絵は、俳優の最も魅力的な瞬間をとらえたもの。どの絵師にも独自の魅力があり『この一枚』を選ぶのに苦労します」
役者絵は舞台のベストショット。今は亡き名優たちの姿を、見てみよう。
大胆な表情と動きは絵にしても大迫力!
市川團十郎家【成田屋】
十三代目・團十郎の襲名予定の市川海老蔵氏は、この市川家の御曹司。現代の團十郎もその父も、力強い目が印象的だったが、ご先祖様も、やはり目ヂカラがすごそうだ。
市川團十郎といえば、「荒事」のイメージ。荒事は衣装も大胆な絵柄で、隈どりをすることも多い。絵にしたときにも、ドドーンとその迫力が伝わってくる。堂々とした体つきや力を込めた腕の感じなどが、絵によく表れていて、チョーンという柝の音が聞こえそう。「イヨゥ、成田屋~!」と、声をかけたくなる。
初代 市川團十郎
元禄期の歌舞伎人気を大いに高めた大俳優。荒事と呼ばれる大胆で荒々しい動きを見どころにとらえた芸を 確立し、市川團十郎家の礎を築いた。元禄17年、45歳のときに舞台上で俳優に刺殺される。
二代目 市川團十郎
先代の急死後、生島新五郎(のちに絵島生島事件で流罪)に師事し、お家芸の荒事に、生島から学んだ和事の芸の味わいを加え、独自の芸風を築いた。隈どりの様式を大きく発展させたといわれている。
八代目 市川團十郎
幕末に活躍。大変な男ぶりで大人気をとったが、32歳のときに旅先で自殺。理由は不明。その人気ぶりはつとに有名で、吐いたタン(つばきとも)を女性たちがお守りにしたなどの“伝説”が残っている。
九代目 市川團十郎
歌舞伎を洗練された芸術に高めるよう努力したほか明治の劇界を、五代目尾上菊五郎や初代市川左團次らとともに盛り上げた功労者。「劇聖」とも呼ばれている。浅草寺の「暫」の銅像はこの人。
市川鰕蔵 (前名は五代目 市川團十郎)
市川梅丸からはじまって、市川幸蔵、松本幸四郎、市川團十郎、市川鰕蔵と襲名していった。「鰕蔵」と名乗ったのは、尊敬する父の「海老」の字に遠慮したため。55歳で引退するが、息子の早世により3年ほどで舞台に復帰した。
七代目 市川團十郎
荒事を中心に市川團十郎家が得意の演目を18選び、後世に残る「歌舞伎十八番」を定めた人。豪快かつ色気のある芸風が江戸っ子の熱狂的な人気を呼んだが、水野忠邦の進める天保の改革で処分を受け、7 年も江戸を離れることになってしまった。
スケールも大きいがキャラも濃い名優たち
松本幸四郎家【高麗屋】
市川團十郎家と縁の深い松本幸四郎家。二代目松本幸四郎は、四代目市川團十郎を襲名し、のちに子に團十郎を譲った後、幸四郎に戻ったものの、今度は市川海老蔵に改名…と少々複雑。また四代目松本幸四郎は、いわゆる御曹司でも何でもない、芸の力で認められたノンキャリア組。我が強かったため五代目團十郎らとしょっちゅうケンカ。舞台で初代菊五郎とつかみ合いをやったこともあるとか。
五代目 松本幸四郎 (前名は三代目市川高麗蔵)
「実悪」と呼ばれるスケールの大きな悪人を演じれば、右に出るものはないといわれた名優。鋭い目つきと高い鼻が特徴的な顔立ちをしている。彼が舞台でぐっとにらむ見得を切ると、子どもがおびえて泣くとまでいわれた。
荒事の團十郎と好対照の優男
尾上菊五郎家【音羽屋】
幅広い役をこなす芸の力と、女形もいける姿の美しさで、代々人気を博してきた尾上菊五郎。現在もそうだが、菊五郎と市川團十郎は、似合いの一対として役を務め、相乗効果でもともと高い人気がさらに高まる、歴史の長いベストコンビ。それもそのはず、京都で女形を務めていた初代菊五郎、江戸から来た二代目市川 海老蔵(のちの二代目團十郎)の相手役で大ブレイク。海老蔵とともに江戸へ行って、さらに人気者になったのだ。
三代目 尾上菊五郎
七代目團十郎や五代目松本幸四郎らと、江戸歌舞伎を大いに盛り上げた一人。絶頂期に舞台を去り、餅屋を開いたものの、やはり舞台へと戻って大川橋蔵を名乗った。ちなみにドラマ「銭形平次」の主演を長く務めた大川橋蔵は、この二代目。
和事の魅力を江戸に持ち込んだ
澤村宗十郎家【紀伊国屋】
伊勢の舞台から大阪を経て江戸へ来た澤村宗十郎。初期は「実悪」を演じていたが、やがて繊細な人情を演じる「和事」や「和実」(和事と実事の両面の要素をもつ)と呼ばれる役を演じるようになり、人気が高まった。これにより、その後も澤村宗十郎家の芸は、「和実」を中心としたものになっていく。上方風の柔らかい物腰とすっきりした容姿で、当時の女性たちのハートをわしづかみにしたのだ。
三代目 澤村宗十郎
必ず大入りになるといわれる演目『仮名手本忠臣蔵』。その主人公ともいうべき大星由良之助役は、澤村宗十郎家にとって、 初代からの当たり役。三代目宗十郎は、上方の芸と江戸の気分 を上手に取り入れ、家の芸をさらに発展させた人物なのだ。
芸も個性も高ポイントの逸話揃い
坂東三津五郎家【大和屋】
芸と男ぶりのよさで人気を博した初代、「江戸随一の和事師」といわれた三代目、人間国宝にもなったが、フグの毒にあたって死んだ八代目などなど、芸でもそれ以外でも話題性の高い人物が多い三津五郎家。
現在の三津五郎も、普段の彼がもつを博した初代、「江戸随一の和事師」といわれた三代目、人間国宝にもなったが、フグの毒にあたって死んだ八代目などなど、芸でもそれ以外でも話題性の高い人物が多い現在の三津五郎も、普段の彼がもつイメージとはまったく違う悪役で映画出演したり、現代劇、それも小劇場に出演するなど、意外な話題を提供することも。 代々の三津五郎の、特徴をとらえた絵を並べて見ると、さまざまな個性が「三津五郎家」に集まっているのを実感できる。
三代目 坂東三津五郎
初代三津五郎の子で、江戸随一の和事師といわれる。日本舞踊の坂東流の祖でもあり、踊りの名手として、三代目中村歌右衛門と芸を競っていた。絵は彼が得意とし、家の芸となった力士役「白藤源太」。
四代目 坂東三津五郎
のちに守田勘弥となった四代目三津五郎。30代くらいから中風(神経が侵され、手足が利かなくなる病気。脳血管障害の後遺症とも)で身体が不自由になったが、晩年まで芸を捨てずに舞台に立った。
初代 坂東しうか
三代目の養子。女形として活躍し、男顔負けの威勢のよい悪女を得意としていた。死後、五代目三津五郎の名を贈られる。ちなみに現代の女形の名優である「坂東玉三郎」という名は、この人が初代。
姿がよく口跡もよいが、事件も…
片岡仁左衛門家【松嶋屋・松島屋】
初期の仁左衛門家は早世の人が多く、うやむやのうちに歌舞伎界から消えた人がいたりもしたが、この名を絶やさぬようにと守り伝えられてきた名家。主に立役を得意としてきたが、女形をこなした人も多い。現在の仁左衛門のような、すっきり細身の美男子ばかりと思いきや、ここに紹介する七代目は、貫録のある体格で、容姿に優れたという。意外かもしれないが、女形もこなす幅広い芸の持ち主だったのだ。
七代目片岡仁左衛門
一時は師匠から破門されたこともあるが、芸をあきらめることなく精進し、名人といわれるまでになった人。それまで長く絶えていた「片岡仁左衛門」の名の再興を認められたのも、努力で築き上げた実力と人気の賜物。時代物も世話物も得意とした。
ここから枝分かれして多くの名優が生まれた
中村歌右衛門家【成駒屋・高砂屋・加賀屋】
中村歌右衛門家を元とする名家は多く、勘三郎家と富十郎家以外は、すべてこの歌右衛門家からはじまっている。金沢の医者の息子といわれる初代歌右衛門は、その実力を認められて、歌舞伎界のスターダムに駆け上がった人。作者として台本も書いたという。その子である三代目も、やはり俳優だけでなく作者としても活躍。女形も立役もこなす人気俳優だった。そうした幅広い芸のひとつを究めていったのが、中村家なのだ。
四代目 中村歌右衛門
体格がよく、立役を得意とした四代目歌右衛門。お茶屋の子に生まれ、藤間流の振付師に弟子入りしたところから、歌舞伎の道に入っており、異例の出世で名跡(代々受け継がれる名前)を受け継いだ。
いまもテレビや舞台などで活躍する歌舞伎役者たち。その系譜をたどり、代々受け継いできた、それぞれの家の芸や特色を知れば、見方が変わってくるかもしれません。
text=Ichiko Minatoya photo=Ota Memorial Museum of Art
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