「東海道四谷怪談」お岩と伊右衛門
裏切りを許さぬ恐怖のリベンジ
おくだ健太郎の歌舞伎キャラクター名鑑
名作歌舞伎を彩る個性豊かなキャラクターを、歌舞伎ソムリエのおくだ健太郎さんが紹介。今回取り上げるのは、歌舞伎だけでなく怪談話としてもあまりに有名な「東海道四谷怪談」に登場するお岩とその夫の民谷伊右衛門です。
おくだ健太郎
歌舞伎ソムリエ。著書『歌舞伎鑑賞ガイド』(小学館)、『中村吉右衛門の歌舞伎ワールド』(小学館)ほか、TVなどで活躍。http://okken.jp
歌舞伎をご覧になったことがないお方でも、お岩さんの名前は、どこかで聞いたことがあると思います。まぶたが醜く腫れ上がった恐ろしい形相──。「お化け、幽霊」と聞いて、多くの人が思い浮かべる、あのビジュアルの原型になった女性です。歌舞伎芝居のヒロインなのです。
夫は民谷伊右衛門といって、あの雪の夜の仇討でもお馴染みの、赤穂浪士(お芝居では塩治浪士と呼びます)と同じ武家の侍ですが、彼自身は仇討ちのメンバーには名を連ねてはいません。お金へのだらしなさが災いして、一度は決まった結婚も、相手の父親から拒絶されてしまいます。
諦めきれない伊右衛門は、すごく卑劣なやり方で、その相手、すなわちお岩とよりを戻すのですが──いざ一緒になってみたら、お岩への態度が、なんとも冷たい。生活が苦しいので、傘張りの内職をけだるい雰囲気で進めている伊右衛門、うす汚い長屋に、お岩が産んだ赤ちゃんの泣き声が響くと、「ったく……」と鬱陶しそうな顔つきを隠そうともしません。
隣に住んでいる伊藤喜兵衛一家は、伊右衛門・お岩夫婦とは正反対の大金持ちです。そして、伊藤家の娘・お梅は、伊右衛門にベタ惚れなのです。お岩さえいなくなれば……伊藤家はとんでもない悪だくみを思いつきました。「産後の肥立ち」が優れないお岩に、よく効く薬だと偽って、恐ろしい毒薬を与えるのです。
それは飲むと顔が醜く腫れ上がってしまう薬でした。お岩の美貌を台無しにして伊右衛門に愛想を尽かせ、娘と祝言を挙げさせよう、という計略です。これがまんまとはまり、伊右衛門は、お梅をぜひ花嫁に、と快諾してしまう。
何も知らないお岩は「ありがとうございます……」と何度も何度もお辞儀をしながら、湯飲みに溶いたその薬を最後の一滴まで無駄にせずに、ごくん、と飲み干します。だまされているなんて夢にも思わずに。
やがて、毒が回って……顔の痛みに悶絶したお岩は、鏡に映った己の姿を見て、愕然とします。
「これが私の顔かいのぉ……!」
裏切られた悔しさに全身を震わせながら、息絶えていくお岩。その霊は、しつように伊右衛門にまとわりつき、彼を悩ますのです。仇討ちの計略からドロップアウトした侍が、逆に自分自身は、邪険に扱った妻から、強烈なリベンジをくらう──
武家社会のさまざまな矛盾が露呈するようになった、文化文政期に書かれた作品ならではの、あくの強いドラマです。
text=Kentaro Okuda illustration=Akane Uritani
2019年10月号 特集『京都 令和の古都を上ル下ル』