「一本刀土俵入」
お蔦と茂兵衛、10年越しの恩返し
おくだ健太郎の歌舞伎キャラクター名鑑
名作歌舞伎を彩る個性豊かなキャラクターを、歌舞伎ソムリエのおくだ健太郎さんが紹介。今回取り上げるのは、劇作家・長谷川伸が1931年に発表した作品「一本刀土俵入(いっぽんがたなどひょういり)」より、お蔦(おつる)と駒形茂兵衛(こまがたもへい)の二人です。約束を誓った二人の行く末やいかに。
おくだ健太郎
歌舞伎ソムリエ。著書『歌舞伎鑑賞ガイド』(小学館)、『中村吉右衛門の歌舞伎ワールド』(小学館)ほか、TVなどで活躍。
http://okken.jp
劇作家・長谷川伸が1931年に発表した作品です。相撲取りとして大成できず、アウトローの道へ分け入っていった男と、場末の女郎から足を洗って、ささやかな幸せをつかもうとする女——10年の歳月にわたって繰り広げられる、胸に染みるドラマです。
利根川にほど近い取手の宿の、安孫子屋。2階の窓の手すりに、けだるく身を預けて、今日もお蔦は安酒をあおっています。地元のごろつき連中のおどし文句に少しもひるまず、罵声を浴びせる、向こうっ気の強い女。
でも、根は優しくて寂しがり屋なのです。店の前をたまたま通りかかった「ふんどしかつぎ」の茂兵衛とのやりとりを見れば、そのことがよくわかります。出世の見込みがない、と部屋の親方に見放されて、とぼとぼ江戸を目指す茂兵衛。腹ペコの上に、一文無し。からかい半分に声をかけたお蔦でしたが、彼の気の毒な身の上話に耳を傾けているうちに、次第次第に身につまされていきます。
「利根川の渡し(船の船賃)は16文だよ!」
ありあわせの錢が入った巾着を投げ与えると、自分のやかんざしもしごき帯にくくりつけて、2階からくるくると下へと垂らすのです。お前さん、大食らいだろうから、これもお金に替えて、たっぷりお腹を満たすんだよ、と。
「わしは……こんな女の人に、はじめて逢った……」
「横綱のタマゴは、泣きべそだねぇ。早くお取りよ……」
滂沱たる涙でお蔦の施しを握りしめた茂兵衛は、この恩返しに、必ず出世して横綱になること、そのとき、自分だとすぐ姐さん(お蔦のこと)にわかってもらえるように、四股名は、いまの駒形茂兵衛のまま変えずにいることを固く誓って渡し場を目指すのでした。
10年が過ぎて——横綱への夢は破れ、渡世人となった茂兵衛ですが、あのときのお礼とお詫び伝えたさに、ふと訪れた思い出の地。安孫子屋はすでに宿をたたんでいました。
そして、探し当てたお蔦はかわいい女の子の母親になっていました。内職仕事に根をつめて、堅気のつつましい暮らしにも馴染んでいますが……連れ合いの男が、いかさま賭博に手を出して悪党たちに追われている!
「姐さん、ここ動くんじゃねえぞ」と言い残すと茂兵衛は、これぞまさしく10年前の恩返し、迫り来る猛者どもを蹴散らかし、その親分をも、相撲で鍛えた力で見事にねじ伏せるのでした。
横綱になれなかった彼の、それが精一杯の土俵入りだったのです。
text=Kentaro Okuda illustration=Akane Uritani
2020年4月号「いま改めて知りたいニッポンの美」