TRADITION

河井寬次郎の言葉と生き方
暮しが仕事。仕事が暮し。

2020.9.20
河井寬次郎の言葉と生き方<br>暮しが仕事。仕事が暮し。

「暮しが仕事 仕事が暮し」
 これは陶工・河井寬次郎の言葉です。

陶工でありながら、木彫やデザインなど陶器以外の仕事も手掛けた河井は、同時に多くの言葉や文章を残しています。そしてそれらの言葉や文字からは本人の内面、人柄を知ることができ、またその言葉によって、受け手の私たちは励まされ、生きる上でのヒントや大きな力を与えられます。

とても幸せなことに、私はそんな河井の孫の一人としてこの世に生を受けました。現在河井寬次郎記念館になっている家でともに暮らし、河井亡き後、記念館になってからは学芸員というかたちで日々河井とかかわる生活をしています。当時9歳の少女だった私が現在は還暦を超えていますので、河井がこの世から姿を消してすでに半世紀以上の時が経ったことになりますが、「人生は短し、芸術は永し」の通り、残された作品や言葉から、さまざまな人生の指針を得ています。

ここでは、そんな河井の言葉を通して、仕事について、また暮らしについて、皆さまに何かをお伝えできればと思います。

 

河井寬次郎
1890年、島根県安来に大工棟梁の次男として生まれるが、松江中学校時代に陶工になることを決意。東京高等工業学校(現東京工業大学)の窯業科に進む。1920年に京都市五条坂鐘鋳町に住居と窯を得、翌年個展デビュー、絶賛を浴びる。生涯にわたり、精力的に作陶、木彫、書などを発表。同時に柳宗悦、濱田庄司らと暮らしの中の品々に美を見出す「民藝運動」を推し進めた。現在、その住居と仕事場、登り窯は、河井寬次郎記念館として一般公開されている

文= 鷺珠江
1957年、河井博次・須也子の三女として京都市に生まれる。同志社大学文学部卒業。卒業後河井寬次郎記念館学芸員として勤務。以降、祖父・河井寬次郎にかかわる展覧会の企画・監修や出版、講演会、資料保存などに携わる

暮しが仕事 仕事が暮し

さて、「暮しが仕事 仕事が暮し」の言葉ですが、この言葉通り、河井にとっての「仕事」は、暮らし──生き方そのものと切り離せないものでした。現代人の多くは仕事とプライベートが「9時から5時」というように明確に分かれた生活ですが、河井家における24時間というのは仕事も暮らしも混然一体となっていました。

仕事をしながら、多くの来客の訪問を受け、そこでは美を基準にした会話がなされ、人々との交流が図られました。同じ敷地の中に、住居部分と仕事場、窯場が一緒に存在していたこともそれを可能にしていた大きな要因といえますが、たとえば庭にはたくさんの陶器が並ぶ中、洗濯物がひらめくという日常の風景がありました。

そして河井は常々、美しい仕事、正しい仕事は、美しい暮らし、正しい暮らしから生まれてくる、という思いをもっていました。

ですので、日の出とともに起きて日の入りまで仕事をされるお百姓さんのお仕事をとても尊いものとしていました。

“穀物や野菜は育てることは出来るけれども作る事は出来ない。作る仕事はごまかすことも出来るが、育てる仕事にはそれは出来ない。農家が、農家の暮しが美しくならないはずがない”

と随筆「部落の總體」にも書いています。

河井における仕事は、穀物や野菜ではなく陶器でしたが、それもやはりものづくりには変わりがなく、ごまかすことのない育てる仕事を目指していたのではと思っています。

新しい自分が見たいのだ ──仕事する

そして河井は「新しい自分が見たいのだ──仕事する」の言葉も残しています。

河井は生涯にわたり質量ともに膨大な仕事を残していますが、その原動力となったものがこの言葉に隠されています。

悩み苦しんでやっと手に入れた技法でも、いったんそれを手中のものとすると、河井はそれを手放せる人でした。自分で自分を縛ることなく、次に自分の中からまたどんな新しいものが生まれてくるのだろう──という興味に突き動かされるように仕事をしました。言い換えれば、「自分とは何か」という命題と向き合った生涯だったといえます。

「此世は自分をさがしに来たところ、此世は自分を見に来たところ」の言葉からもそれをおわかりいただけることでしょう。

そしてこの「新しい自分が見たいのだ──仕事する」の言葉には、河井本人が自解として次のように添えています。

“昨日の自分には人は皆用がない。繰り返しなんかには用がない。いくら繰り返しをやっていると思っても、その繰り返しの中にいつも繰り返さない自分を見ようとしているのだ。どんな強いられた仕事であっても、次々により新しい自分を見ようとして引きずられているのだ。これ以外に人を動かす動力があるであろうか”

これは説明するまでもありませんが、決して繰り返しの仕事ルーチンワークを否定しているのではなく、その繰り返しの仕事であっても、同じかたちはふたつとなく、そこに人は動かされるのだということでしょう。

河井本人は色やかたちを生み出す創作の仕事、つまりいつも新しいものを生み出し、変化に富んだ仕事でありましたが、同時に河井はその逆、同じ仕事に黙々と打ち込む人々にも大きなエールを送っていました。

井蛙知天

私たちは「井の中の蛙、大海を知らず」という荘子の言葉からの格言を知っていますが、河井はそれを「井蛙知天──井の中の蛙、天を知る」と言い換えた言葉を残しています。(昨今この言葉がドラマや映画のせりふとして少し言い換えて使われたりしています)

小さな井戸の中にいる蛙は、大きな海を知らない──つまり世間知らずで物事の理解が狭い、というような否定の意味で使われている言葉を、河井は、その狭い井戸の中の蛙は天については誰よりも知っているスペシャリストである、という肯定の言葉に置き換えました。

職人仕事に打ち込む人、ひとつの学問に邁進する研究者……。そういったひと筋の道を進む名もなき人への賛美の言葉に聞こえます。

祈らない祈り 仕事は祈り

河井は宗教的情緒の大変深い人でしたが、この言葉からもそれを感じています。究極の自己表現といえる芸術の世界に身を置きながら、自己などを超えた自他合一の世界──それは自分と他人でもあり、自力と他力でもある世界──を目指し、そして土、火、水、木といった大いなる力のおかげでの仕事に心からの感謝をしていました。

「祈らない祈り 仕事は祈り」──お経を唱えたり、祈りを捧げたりするのではないけれども、生きていること、仕事ができることへの感謝と喜びを、河井はものづくりの道で、そして自らの生き方そのもので、日々表していたのだと思います。

仕事が仕事をしてゐます
仕事は毎日元気です
出来ない事のない仕事
どんな事でも仕事はします
いやな事でも進んでします
進む事しか知らない仕事
びっくりする程力出す
知らない事のない仕事
きけば何でも教へます
たのめば何でもはたします
仕事の一番すきなのは
くるしむ事がすきなのだ
苦しい事は仕事にまかせ
さあさ吾等はたのしみましょう

河井 寬

 

さて、この「仕事が仕事をしてゐます」ではじまる「仕事」の詩ですが、最後は「苦しいことは仕事にまかせ さあさ吾等はたのしみましょう」で終わっています。つらい仕事もなんだか明るい気持ちで乗り切れそうに思える詩です。

ですが、同時にとても深い言葉であることにも気づきます。

「仕事が仕事をしている仕事」という言葉も残していますが、仕事をする人(自分)と、その仕事に区別がないほど一体化する……。それが本当の仕事である、というように受け取れます。 小さな自分など消えてなくなるほどその仕事の中に入っていく、自分がしているのか、仕事にさせてもらっているのか、そんなことすらわからなくなる世界──そういう仕事を河井は目指していたのではないかと思います。

 

河井寬次郎記念館
住所|京都府京都市東山区五条坂鐘鋳町569
Tel|075-561-3585
開館時間|10:00〜17:00(入館16:30まで)
休館日|月曜(祝日の場合は開館、翌日休)※夏期・冬期休暇あり
www.kanjiro.jp

文= 鷺珠江
Discover Japan 2019年3月号「暮しが仕事。仕事が暮し。」


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