見るなと言われると見たくなる…
「黒塚」老女岩手と強力
おくだ健太郎の歌舞伎キャラクター名鑑
名作歌舞伎を彩る個性豊かなキャラクターを、歌舞伎ソムリエのおくだ健太郎さんが紹介。今回取り上げるのは、鬼女の憂い、希望、怒りが渦巻く「黒塚」に登場する老女岩手と高僧・阿闍梨の荷運びの強力です。
おくだ健太郎
歌舞伎ソムリエ。著書『歌舞伎鑑賞ガイド』(小学館)、『中村吉右衛門の歌舞伎ワールド』(小学館)ほか、TVなどで活躍。http://okken.jp
誰もが「これだけは、内緒にしておきたい。隠し通しておきたい」という秘密、ネガティブな感情、心にうずく傷を抱えて生きている——人間とは、そういう生き物だと思います。
ところがその一方で、誰かの隠し事をあわよくばのぞき見てやりたい、暴いてしまいたい、という欲望も、どこかに携えながら生きている。これもまた人の世の常だと思うのです。
矛盾し合う、相反するこのふたつの感情をドラマティックに舞踊化した作品、それが『黒塚』です。
高貴な僧・阿闍梨は、弟子たちとお供の荷運び・強力を従えて、東北を旅しているとき、夜更けの枯野で、寂しげな老女と出会います。か細い歌声交じりに、糸車をくるくる回しながら、「これまでの人生、あさましい思いばかりにとらわれた日々だった……。こんな私にも、極楽往生はかないますか?」と、不安げにその老女は問うてきます。
「心のもち方ひとつで、この世も、あの世も、平穏な時間に満ちたものになりますよ」とやさしく応じる阿闍梨。老女は救われたような心地がします。一夜の宿を一行にすすめ、彼らが暖をとるための焚き芝を刈りに、山へと向かいます。
その出がけに「あの寝屋を、どうか、のぞかないでください」と、念入りに言い残した老女——ところが、この願いを、強力が、台無しにしてしまうのです。
「とかく見るなと言われると、見たくなるのがこの世の道理」勝手な理屈をこねて、阿闍梨たちが深夜のお勤めに集中している隙に、こっそり戸を開けると……
そこには死人の骨が、山のように積まれていました。老女の正体は、これまで数多の旅人を餌食にしてきた、人食い鬼だったのです! 「うわああーっ」と悲鳴もろとも腰を抜かす強力。
同じ頃、裏切られたとも知らずに老女は、月光が美しく注ぐの原で、えもいわれぬ幸せをかみ締めていました。こんなにも残忍な、鬼の正体のワシに、あのお方たちは光を照らしてくれた。希望を与えてくれた……。
月明かりを浴びながら、いつしか老女は、童心に帰っています。わらべ唄に身をゆだねるように、無邪気だったあの頃を思い出すように、喜びいっぱいに、踊って、踊って、踊っているところへ……。
血相を変えて走って逃げてきたのは、あの強力! 一瞬ですべてを悟った老女は、表情を曇らせ、恐ろしい本性をむき出しに、強力に襲いかかります。
この老女と旅の一行の、どちらが「鬼」なのでしょうか。
text=Kentaro Okuda illustration=Akane Uritani
2019年5月号 特集『はじめての空海と曼荼羅』