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四国村ミウゼアム《砂糖しめ小屋》
前編|香川の産業と暮らしを支えた“働く小屋”

2025.4.14 PR
四国村ミウゼアム《砂糖しめ小屋》<br><small>前編|香川の産業と暮らしを支えた“働く小屋”</small>

江戸中期以降、讃岐の一大産業となった白砂糖づくり。その舞台のひとつが、砂糖しめ小屋だ。屋根が円錐形のしめ小屋で現存するのは四国村の2棟のみ。讃岐で砂糖づくりが始まった理由とは?

「讃岐三白」の一角
江戸期から続く砂糖づくり

1877(明治10)年の出版当時に存在した各地の名産品生産の様子を描いた連作錦絵の一枚。牛と人がともに働く讃岐の白砂糖生産の様子が鮮やかな版画に
歌川広重(三代) 「大日本物産図会 讃岐国白糖製造ノ図」(高松市歴史資料館蔵)

讃岐(現・香川県)の名産品を表す「讃岐三白」という言葉がある。3つの白は塩、綿、そして砂糖のこと。中でも砂糖は質が高い「讃岐和三盆」として知られ、江戸時代後期の天保年間には全国一の生産量を誇るほどで、讃岐を最も潤したともいう。

砂糖しめ小屋が円形を成すわけ
サトウキビを車石の間に通して汁を搾り出すシメグルマ。その柄(腕木)を引きながら牛が歩く。そのルートを無駄なく囲うとおのずと円形になる

江戸時代中期、国産砂糖といえば薩摩藩による黒糖が主で、白砂糖は中国など海外からの輸入品が主だった。そこで白砂糖づくりを奨励したのが8代将軍・徳川吉宗だ。讃岐では高松藩の5代藩主・松平頼恭よりたかに命じられ藩医であった池田玄丈や、その弟子の向山周慶さきやましゅうけいらが日本各地の製糖技術を学び、1798(寛政10)年までに製法を確立。

以後も改良が続けられ、讃岐平野には砂糖づくりにかかわる多様な生産基盤が生まれた。まずはサトウキビを栽培し収穫する畑、そしてサトウキビを搾汁するための「砂糖しめ小屋」、さらにその汁を煮て不純物を取り去る「釜屋」などだ。

牛が懸命に働いた跡が壁のあちこちに
直径8mの円を囲んで32角形の骨組みをつくり、土壁で仕上げている。壁には牛が体を擦った跡が。人間5〜6人と牛1頭が1チームとなって働いた

四国村に残されている砂糖しめ小屋と釜屋は、その歴史の証人。中でも茅葺き屋根が円錐形を成す2棟の砂糖しめ小屋は四国特有のもので、もはやここにしか現存しない貴重な文化財だ。

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歯車、キツネ、車石……端正な手仕事
シメグルマは木製の歯車、車石、サトウキビを車石の間に差し込むための鉄製の口「キツネ」など、緻密な手仕事による部品の組み合わせからなる

 

小屋が円形の理由とは?
 
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text: Kaori Nagano photo: Mariko Taya
2024年7月号増刊「香川」

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