TRADITION

飛鳥、それは日本人の心のふるさと
はじまりの奈良

2020.7.24
飛鳥、それは日本人の心のふるさと<br>はじまりの奈良</b>
明日香村にはいまも多くの古墳が残る。石舞台古墳は6世紀の築造で、巨石30個を積み上げている。周囲は芝生広場になっており、春は桃や桜、秋は彼岸花が咲き、自然と一体になった光景が素晴らしい
写真|河口信雄/アフロ

初代神武天皇が宮を造られ、日本建国の地とされている奈良県。連載《はじまりの奈良》では、日本のはじまりとも言える奈良にゆかりのものや日本文化について、その専門家に話を聞いていきます。今回は飛鳥の地から国家としての歩みを始めた日本の歴史について、明日香村村長の森川裕一さんに話を伺いました。

明日香村では、村全体を屋根のない歴史博物館として、整備、運営していくプロジェクトが進行中。歴史ゾーン、古墳ゾーン、自然ゾーンの3つに分けて、それぞれの文化資源を体感し、飛鳥を深く広く学べるようになっていく
写真|東阪航空サービス/アフロ

飛鳥の中心にある甘樫丘。頂上から明日香村が一望でき、朝焼けの光景は特に美しい。また、大和三山といわれる耳成山、畝傍山、天香具山も眺められる。

「飛鳥の時代から変わらぬ自然からは、ほっとする気分を得られ、大きなパワーを感じるはず。一方で、地震や台風など、強い自然と共生してきた人々の風俗や神事も残っている。明日香村は、まさに日本人の心のふるさとなのです」というのは、奈良県明日香村村長である森川裕一さん。村の行政を統べつつ、飛鳥の魅力を伝える伝道師としても活躍している。

明日香村は、1980年に公布された「明日香村特別措置法」によって、開発行為が制限され、その結果、およそ古代から変わらぬであろう、美しい景観が守られてきた。

この地に天皇の宮が置かれ、いわゆる飛鳥時代がはじまるのが、西暦592年から。710年に奈良へ都がつくられるまで、日本の中心であったのだ。そして、この飛鳥から国としての枠組みがはじまっていく。

この時代のことは、中国との関係なくしては、よく見えてこない。それは、600年の頃こと。時の王朝、隋の文帝に使いを送るべく、遣隋使を派遣するが、拝謁がかなわない。日本が未熟な国であり、政がお粗末であるというのが理由だったとか。それと同時に、王都大興城や朝賀の儀のきらびやかさに驚かされた経験が、帰国後の日本に大きな動きを与える。

まずは、国家としての制度を整えるため、政務と儀式を行える小墾田宮に遷都。そして、当時の官僚制度となる冠位十二階を定め、十七条憲法を制定していく。ちなみに、冠位制定が603年、憲法制定が604年であることを考えると、いかに急作業であったか、想像できるというもの。その後にも、大仏造立の詔を出すほか、仏教を保護することで、文明国家としての精度を高めていった。同じ頃に、法隆寺が完成している。

そして、607年。満を持して、第二回の遣隋使を派遣。このとき、聖徳太子が小野妹子に持たせた手紙に、「日出処の天子、書を日没するところの天子に致す」と書いて、隋の煬帝を激怒させたのは、有名なお話。聖徳太子にすれば、日本は国家としての枠組みを整えたのだから、今後は対等の関係を結びたいという姿勢を表したかったのかもしれない。

こうして飛鳥の地から、日本は国家としての歩みをはじめた。そして、この時代にもうひとつのはじまりを見ることができる。それが、592年に即位し、628年に崩御されるまで活躍した推古天皇。東アジアで初の女帝である。

飛鳥時代は、推古天皇のほかにも、土木事業に取り組み続けた皇極天皇や、志半ばに倒れた夫の夢を実現するために尽力した持統天皇、また、女性ではじめて出家し、海外留学もこなした善信尼など、多くの女性が活躍した時代でもある。現代では、女性の社会的活躍が叫ばれて久しいが、飛鳥時代がどれほど先進的な時代であったか。

歴史の教科書を覚えただけでは、見えてこない歴史のおもしろさ。そして、その時代の風景が残されているであろう土地に立てばこそ感じられるもの。明日香村は、知れば知るほど、訪れたくなる。

cooperation : Masayuki Miura text : Tatsuya Ogake
2019年5月号 特集「はじめての空海と曼荼羅」


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