TRADITION

「お盆」のルーツは奈良にあり?

2018.8.10
「お盆」のルーツは奈良にあり?
奈良南部、十津川村に伝わる武蔵の盆踊りのひとコマ。両手に扇を持ち、ふわりふわりと操りながら、足元は優雅にステップを踏む。遥か昔から伝わる歌と踊りが心に染みる

初代神武天皇が宮を造られ、日本建国の地とされている奈良県。連載《はじまりの奈良》では、日本のはじまりとも言える奈良にゆかりのものや日本文化について、その専門家に話を聞く。地域によって風習は違えど、先祖の霊をお迎えするお盆。飛鳥ではじめて行われたと言われるお盆行事とそのルーツを、海龍王寺の住職・石川重元さんに伺った。

東南アジアでは、雨季に遊行(外での修行)をやめて、ひとつところで修行することを安居という。この安居の終った日に、人々が衆僧に飲食などの供養をした行事が転じて、祖先の霊を供養し、さらに餓鬼に施す行法(施餓鬼)となっていった

黒い袈裟をまとい、バイクや自転車で街中を疾走するお坊さん。お盆の頃にそんな姿を見たことがある人もいるかもしれない。限られた時間の中で、数多くの檀家を回り、経をあげる。お坊さんにとっては、まさに熱き戦いが繰り広げられる時期である。

では、このお盆にお坊さんが檀家を回る風習は、いつ頃からはじまったのだろうか。時代は江戸、日本史上最大規模の一揆、島原の乱までさかのぼる。キリスト教の弾圧がきっかけとなって起こった島原の乱は、鎮圧まで約半年を要し、江戸幕府にとって大きな打撃となったことで知られる。その後、お坊さんが各家に趣き読経するようになるのだが、実はこれは、キリスト教の禁止、邪宗門改めとしての役割も兼ねていた。つまり、江戸幕府による民衆統制の役割も果たしていたわけである。

ちなみに、お盆のことを、仏教では盂蘭盆という。「盆」とは、文字の通り、霊に対する供物を置く容器としての意味もある。また、7月(または8月)13日から15日のときだけ臨時に設ける祭壇を「精霊棚(盆棚)」といい、この棚の前で読経することから、棚経ともいわれている。

このお盆という風習は、仏教だけでなく、実は、道教の影響も受けている。台湾などの中華文化圏では、旧暦の7月を鬼月と呼び、この時期にあの世から先祖などの霊がこの世に舞い戻って、巷を徘徊するとされている。7月1日に地獄の釜が開き、中元節である7月15日に地獄の釜が閉じるという考え方が基になっている。現在でも、台湾や香港、華南を中心に、7月15日の中元節には、先祖崇拝の行事が盛大に祝われている。

この盂蘭盆の行事が、日本で最初に行われたのは、推古天皇の時代。606年、4月8日と7月15日に斎を設けると記されている。斎とは、潔斎(※1)をして神に仕えること。7月15日という盂蘭盆にあたる日であることから、盂蘭盆会を催したのではないかと考えられている。

また、後の657年には、斉明天皇が須弥山の像を飛鳥寺の西につくって盂蘭盆会を催したという記録が残っている。同年の7月15日(現在の8月8日)には、京(※2)内の諸寺で「盂蘭盆経」を講じ、七世の父母を報謝させたと記録されていることから、日本における盂蘭盆の行事・風習が本格的に開始されたことになる。

この盂蘭盆経は、インドの説話に元が見られる。まだ、お釈迦さまが存命の時代、目連尊者が亡くなった母親の状況を神通力で確認すると、餓鬼道に落ち、苦しんでいる姿を見てしまった。慌てて水や食べ物を差し出すものの、口に入る直前に炎になってしまうのである。そこで、お釈迦さまから亡者救済の秘法を聞き、屋敷の前を通る人々に食べ物や飲み物を施した。すると、人々は大喜びして、やがて輪になって踊りだしたのである。その喜びが餓鬼道に堕ちている者たちにも伝わり、目連尊者の母親にも食べ物が入り、歓喜の舞を踊りながら昇天したとか。この輪になって踊りだしたことが、盆踊りの由来でもあるという。

海龍王寺住職・石川重元さん「このように、仏教と道教が一緒になり成立してきた行事の盂蘭盆会のルーツを理解し、日本で最初に催した飛鳥や奈良で、振る舞い付きの食べ物の祭典を行うことができれば、より多くの方に盂蘭盆のことが理解されていくのではないでしょうか」

※1 潔斎とは、神事・法会の前に、酒や肉食などをつつしみ、沐浴(もくよく)をするなどして心身をきよめること。ものいみ。(『広辞苑』より)
※2 当時の京は奈良・飛鳥にあった

企画協力=三浦雅之 文=大掛達也 撮影:野本暉房 イラスト:西村友宏
2018年8月号 特集「あの憧れの楽園へ。」


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