「五街道」とは?
ルートや成り立ちにせまる!
|地域文化を育んだのは、江戸時代から賑わう“道”でした。
徳川家康が整備を進めた、江戸と地方を結ぶ五街道。江戸幕府が国を統治するための重要な街道であると同時に、さまざまな役割を担っていた。現在では主要国道として在り方を変えるも、当時の街道の面影を至るところに残す。今回は歴史家の安藤優一郎さんの監修のもと、五街道の五街道のルートや成り立ちに迫っていく。
監修=安藤優一郎(あんどう ゆういちろう)
1965年、千葉県生まれ。歴史家。文学博士(早稲田大学)。江戸をテーマとする執筆や講演、セミナー講師のほか、TV番組の時代考証など幅広く活動。『15の街道からよむ日本史』 (日経ビジネス人文庫)をはじめ著書多数。
Q.そもそも五街道とは?

歌川広重『東海道五拾三次之内 日本橋 朝之景』/国立国会図書館デジタルコレクション
A.日本橋を起点に江戸と地方を結ぶ5つの陸上道路
江戸・日本橋を起点に整備された幕府直轄の街道。三条大橋(京都府京都市)までを結ぶ「東海道」、草津宿(滋賀県草津市)までをつなぐ「中山道」、白河宿(福島県白河市)までを結ぶ「奥州街道」に日光(栃木県日光市)までをつなぐ「日光街道」、そして下諏訪宿(長野県下諏訪町)までを結ぶ「甲州街道」で構成される。
Q.いつ、誰が、なんのためにつくったの?

『徳川家康像』/京都大学総合博物館蔵
A.徳川家康が全国の大名たちを統制するために整備
五街道は1601年、大名や民衆を統制する全国支配のため、徳川家康の命によって整備がはじめられた。各地の大名が1年ごとに領地と江戸を往復する参勤交代の主なルートというのが第一の目的で、物資の流通にも活用。享保年間(1716~36)頃には民衆の旅行が盛んとなり、より多くの人々に利用されるようになった。
五街道のルートと成り立ち

「街道」とは、街と街を結ぶ整備された陸上の交通路のこと。日本における街道の歴史は大化の改新(645年)にはじまったとされ、中央集権制を目指したこの政治改革を機に、中央と地方をつなぐ道がつくられていったと歴史家・安藤優一郎さんは考察する。
以降、源頼朝が整備した鎌倉街道や織田信長による全国規模の交通政策など、時の権力者たちは国の統治を背景に、交通網の整備を進めていく。1603年に江戸幕府を開いた徳川家康も同様。関ヶ原の戦い(1600年)で天下統一を果たすとすぐに、江戸を中心とした五街道(東海道・中山道・奥州街道・日光街道・甲州街道)の整備に着手した。
「家康は既存の道を活用しながら、五街道の整備を進めていきました。起点を日本橋にした理由は定かではありませんが、江戸湾が近かったことから、物流の要衝へ発展する期待値が高かったためだと考えられます」
2~4里の間隔で設置した宿場、距離の目安として約4㎞ごとに置いた一里塚など、街道の整備は着々と進み、元禄年間には五街道が完成したとされる。
「五街道は旅人に寄り添った街道ですよね。五街道によって人、物、情報の交流は活発化し、江戸時代の経済や文化の発展に貢献したことは間違いないでしょう」
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02|天下の大動脈「東海道」
03|大名や庶民から大人気「中山道」
04|時の文人も夢中「奥州街道」
05|日光東照宮へ向かう「日光街道」
06|脱走路として整備された!?「甲州街道」
text: Nao Ohmori
2025年8月号「道をめぐる冒険。」































