北前船の主要ルートとは?
海の大動脈・北前船の世界
夢とロマンを運ぶ商人たちに迫る|前編
江戸時代中期から明治30年代まで蝦夷島(北海道)と内地を結んだ北前船。日本の物流と経済を担った大動脈には、船乗りたちの夢とロマンが詰まっていた。今回は、大きく発展した主要ルートについてご紹介!
取材協力=中西 聡(なかにし さとる)
参考文献:『北前船の近代史―海の豪商たちが遺したもの―』(中西聡著、成山堂書店)、『週刊 新発見!日本の歴史 18号』(朝日新聞出版)、『日本経済の歴史―列島経済史入門―』(中西聡編、名古屋大学出版会)
北前船の主要航路図

江戸時代、江戸や上方への物資輸送に使われた主な海の道には、東北から津軽海峡を越え、太平洋側を通って江戸へ向かう東廻り航路と、日本海と瀬戸内海を経由して大坂へ向かう西廻り航路があった。
太平洋を北上する黒潮の流れに逆行して進む東廻り航路と比べて、潮が安定している日本海と波が穏やかな瀬戸内海を進み、物資の一大集積地・大坂に直結する航路は、後に蝦夷島にまでつながり、大きく発展した。
江戸時代中期から明治30年代まで、主に日本海航路で活躍した北前船は、日本海沿岸の各地に寄港して商品を売り買いしながら、大坂と蝦夷島を往来した。上方の北側にある日本海から来る船という意味で北前船と呼ばれたが、日本海沿岸地域では、用いられた木造帆船の名称である弁財船や、米を1000石積めるほど大きいという意味で千石船などと呼んだ。
〈箱館〉

松前、江差と並ぶ松前藩の交易港。江戸幕府が蝦夷島を直轄地とした際に重要な拠点となり、北前船の来航も増加した。
〈大坂〉

日本中の物資が集まる「天下の台所」。北前船の多くは大坂を起終点としたほか、江戸との間を結ぶ菱垣廻船など数多の船が往来した。
〈敦賀〉

古来、北国から都へ物資を運ぶ中継地として繁栄。敦賀湾入り口の河野地区には、日本海沿岸有数の北前船主集落があった。
〈赤間関〉

日本海と瀬戸内海を結ぶ関門海峡に面した赤間関(下関)は、中関、上関とともに防長三関として古くから海上交通の要衝として栄えた。
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北前船はなぜ儲かった?
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01|「航路の歴史」とは?
02|太古~平安時代前期
03|平安時代後期~戦国(安土桃山)時代
04|江戸時代~明治時代
05|北前船の主要ルートとは?
06|北前船はなぜ儲かった?
07|「10人の北前船主」【前編】
08|「10人の北前船主」【後編】
09|北前船が運んだもの
text: Miyu Narita
2025年7月号「海旅と沖縄」































