日本の木の文化
その歴史から、未来を探る
|森林と木の循環サイクル
日本における木の文化は、どのように発展してきたのか? 先人の知恵や奮闘から、木との未来のヒントを探っていこう。
今回は、枯渇と再生を繰り返してきた日本の森林資源の歴史を紹介。これからの木々との関係を考えるためにも、過去に起こった問題と原因を認識し、未来に活かそう。
未来へ向けての森林と木の循環サイクル
古代の大量造営によって、畿内周辺のヒノキは枯渇していた。とりわけ大径材や長大材を得られるような豊かな森林環境は失われ、採材の範囲は遠方へと拡大していった。こうした厳しい木材供給事情に応じ、大まかな傾向として、建築技術の発展に支えられて、中世以降は、小規模の部材で建築を構築するようになっていった。
中世には木材自体の流通もかなり活発であった。古代には、寺院の工匠が寺領に赴いて木材を確保していたが、流通材を購入するかたちに変化した。杣(そま)に期待する役割が木材の供給から変化したことは、クリ林への賦課(税)が木材ではなく、クリの実となっていることにも表れており、木材以外へも利用の対象は拡大した。
ただし12世紀末からの重源による「東大寺」の再興の折に、周防国から巨材が供給されたように、依然として木材は森林資源の中核を占め、流通してもいた。さらに宋に向けて木材が輸出されていたというから驚きである。
戦乱の時代を経た近世初頭には、ヒノキの良質な森林は失われており、さらに都市の成長に伴って、燃料の薪や木炭の消費量も増え、木の枯渇に拍車をかけた。そのため、豊臣秀吉や徳川家康らは木曽などを直轄の蔵入地とすることで、木材供給源を確保した。さらに伐採の禁止や山への立入制限をすることで、環境保全を図った。ただし植林・育林などはなく、消極的な保全にとどまった。
ヒノキの供給源の苦しい状況は現存する東大寺大仏殿の柱にも表れている。この大仏殿の柱は一本の材料ではなく、複数の材を金輪で巻き付けて集成材としているのだ。一方で大梁は一丁材が必要で、再建に尽力した公慶らの長きにわたる全国探訪の末、日向国の山中で巨木を発見した。この東大寺大仏殿の巨材確保にも苦しい森林環境が垣間見える。
さて、木に対する意識の変化も見える。茶室・数寄屋の展開に伴って、ヒノキ以外の樹種にも目が向けられるようになったのだ。そして北山杉に代表されるような銘木趣味も醸成された。
さらに「桂離宮」新御殿の桂棚には、シタン、カリン、キャラ、タガヤサン、ビンロウジュなどが見られ、外国産材の多用という新しい潮流が見える。さらに総欅造、松普請、栂(つが)普請など、ヒノキ以外の樹種で統一するという新たな価値も見出された。
また治山治水という観点も育林の意識を高めた。儒学者の山鹿素行や熊沢蕃山(ばんざん)らによって唱えられ、18世紀以降、幕府や藩によって積極的な資源保全策が進められた。
輪伐法はその方法のひとつで、森林の回復にかかる時間を想定して、数十年の長期的な伐採計画が立てられた。伐採範囲を森林全体の一部に限定することで、持続的な森林保全を図った。
こうした森林政策は、森林を商品木材源として成熟させるものではあったが、本来もっていた森林の多様な価値は低下していった。庶民の日常生活の一部であった燃料用の薪や牧畜用の飼葉や草肥などの確保までもが制限されてしまったのだ。
商品木材としての価値が高騰した一因には江戸の大火がある。大規模な火災を繰り返した江戸では木材の需要が高く、その価格も高騰。紀伊国屋文左衛門のように、材木商が巨万の富を得るものも少なくなかったことにも表れている。
近代に入ってもヒノキの巨材の確保は難しく、「明治神宮」の鳥居や「薬師寺」の昭和復興など、巨材が必要な場面で、タイワンヒノキが持ち込まれている。タイワンヒノキは日本のヒノキとは別種で、ヒノキに比べて油分が多く、耐水性が高いが、性質はヒノキに似ていて建築材料として優秀である。文化財の修理でも用いられており、「姫路城」の東大柱の根継も、太さは約1m近く、大径材が必要であったが、日本のヒノキの確保は難しく、樹種にはタイワンヒノキが選ばれたのである。
戦後には植林はなされたものの、外国産材の使用へとシフトし、山林は放置された。放置による伐採の停止は、森林の回復に一定の効果があったが、木の循環サイクルとしては十分に機能しなかった。保全だけでも利用だけでも、不十分。両者がバランスを取ることで、理想的な循環サイクルの形成が見えてくるのだ。
さて、小材を組み合わせた集成材などの技術がある現代において、新築のみを考えれば、巨材や特殊な樹種の材はもはや不要かもしれない。ただし、巨木の力強さ、神々しさは生命力を感じさせ、樹種ごとに異なる表情を見せる美しさは人々を魅了し続けよう。
また文化財の修理では取り替え前と同規模・同樹種・同等級の材との取り替えを基本とする。そのため、修理用の木材は、元の木材と同じく、巨材が必要となるのだ。その確保が難しい中で、21世紀に入ってから、森林資源の確保や育成にも注力している。木を使うだけではなく、森も育てる。この両輪で、真に持続可能な木造建築遺産の継承を目指しているのだ。
木の育成を含めた包括的な文化遺産の枠組みは世界的に見ても珍しい。木を単なる物質としてとらえるのではなく、自然の産物としての木の文化に支えられた日本ならではの理念である。
これらを見据えると、資源保全と資源獲得のバランスを取ることで、循環型の森林サイクルの形成も可能となろう。その原動力となるのは深い木への理解と愛着であり、そこに新たな木の文化が育まれるのだ。
<森林と木の循環サイクル>
〔中世以前〕
豊富な森林資源で大量造営
都城や宮殿・大寺院の造営によって、大量の木材を利用した。木々が枯渇したら、杣を別の場所に移しており、森林を乱開発していった。次第にヒノキが枯渇し、スギやマツなどの別の樹種の利用が進んだ
〔近世〜近代〕
森林資源が枯渇、荒廃した森の資源を保全
木曽五木(ヒノキ、アスナロ、コウヤマキ、ネズコ、サワラ)の伐採禁止のように、幕府や藩の山林の利用抑制によって森林保護がなされた。また植林による森林の再生が図られ、その木材が藩の財政を支えることもあった
〔戦後〕
植林したが国産材利用が低下
はげ山再生のための大規模な植林により、木材供給を期待したが、外国産材の流入によって、国産材の利用が低下した。その結果、森林利用による管理が低下し、森林の荒廃が進んでいる
・資源利用と森林回復の平衡状態へ
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〔現代〕
21世紀型循環モデルを目指す
持続可能な社会を目指す中で、再生可能であり、運搬負荷の少ない国産の木材が注目されている。安定的な木の需要は森林の管理・保全につながり、森林の利用と育成という循環型のサイクルの構築が期待される
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text: Satoshi Unno
撮影協力=竹中大工道具館
Discover Japan 2024年9月号「木と暮らす」