日本の木の文化
その歴史から、未来を探る
|水運が支えた木材利用
日本における木の文化は、どのように発展してきたのか? 先人の知恵や奮闘から、木との未来のヒントを探っていこう。
今回は、古くから木材利用を支えてきた水運の歴史に迫る。
水運による流通と運搬の発展
水に浮く木材は、水運と切っても切れない関係がある。古くは『万葉集』に近江国の田上山(たなかみやま)からヒノキを伐り出し、水運で藤原京まで運んだ様子が詠われている。ちなみに運河は藤原宮の内側にまで引き込まれていた。平城京では奈良盆地の北の泉木津まで水運を用い、平城山(ならやま)を越えて運び込まれた(このルートは江戸時代の東大寺再建でも用いられた)。この不便さは、鴨川や桂川の水系を利用できる長岡京や平安京への遷都の一因ともなった。
水運の重要性は京都の東西それぞれに堀川をつくっていることにも表れる。さらに江戸初期には京都と伏見の物流のための運河として高瀬川を開削し、水運の便の向上を図っている。その沿岸は材木商が店を構えた木屋町として栄え、現在も木屋町通として名が残る。
大都市・江戸でも水運を駆使している。江戸では大火が多く、木材の大消費地であったから、水運の整備は都市計画上、重要であった。いまも残る木場の地名から、材木商ゆかりの地であったことがわかる。また隅田川をさかのぼった本所周辺には、幕府の御材木蔵が設けられた。この水運利用は御材木蔵内部の運河にも及んでおり、浮力を運搬に利用していた。
産業革命以降、車での陸運も発達したが、歴史的には、山林から消費地まで水運が木材利用を支えてきたと言っても過言ではない。
<水運による作業>
1 伐木作業
巨木を割ることなく伐り倒す「三ツ緒伐り」という古来の方法がある。木の三方からヨキ(オノ)で中心まで刃を入れ、三つの残存部(ツル)を残しておく。最後に倒す方向と逆の位置のツルを伐って倒すことで、倒す方向をコントロールするのだ。杣(そま。木材採取が目的の山)で木材に荒加工を施し、運搬の際に岩などに当たっても割れないように、木材の端部を尖頭につくり出す。細心の注意を払って運搬の準備がなされた
2 山落としして集材
木材が水に浮く性質を利用し、古来、水運が用いられた。ただ山深いところでは、河川の水量が少なかったり、河川そのものがなかったりすると、良材があっても利用できない。そのため新たに運搬のための堰(せき)をつくり、水運の便を確保することもあった。まず主な谷筋の川まで集材する作業である「山落とし」の工程がある。ここでは急峻な地形や高低差を克服するため、修羅・桟手 ・臼などの運搬装置を並べ、その上を人力で滑らすことで木材を下ろした
3 川に流す
水運利用の時の木材運搬にはふた通りの方法がある。まず山中の渓流や小川などで、一本ずつ木材を流して運ぶ管(くだ)流し。そして、数本の木々を縄でつないで束ねて、筏をつくって流す筏(いかだ)流しである。巨木の場合には、端部を尖頭につくり出した材の前方と後方に、浮きとなる材木を縄でくくり付け、さらに監視の船を周囲に配し、万全の態勢で臨んで運搬した。このことからも、巨木がとりわけ貴重であった様子がうかがえる
4 川に綱を張り集材
下流では、運材河川の要所に頑丈な綱を張り渡して、木材をせき止めて、集める綱場が設けられた。綱場という名は、管流しされた材木を集材するために、綱を張ったことに由来している。木曽の山から伐り出す木曽川では錦織綱場まで、天領の飛驒材を流す飛驒川では下麻生綱場と、それぞれ下流に設置された綱場で材木が受け止められた。この綱場からは筏を組んで名古屋、さらには江戸などの消費地へと運ばれていった
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text: Satoshi Unno
撮影協力=竹中大工道具館
Discover Japan 2024年9月号「木と暮らす」