アドベンチャーツーリズムの元祖
日本三霊山を学び歩く【Part 2|立山】
日本三霊山である富士山・立山・白山。古来から続く山岳信仰は、アドベンチャーツーリズムの元祖だ。
今回は、山中に地獄ありとされた女人救済の霊場である立山を紹介する。
人々におそれられた天空の浄土
立山は『万葉集』に載る大伴家持(おおとものやかもち)の「立山賦(たちやまのふ)」では夏でも雪を頂き畏怖すべき対象としてたたえられている。元来はタチヤマで、タチとはそびえ立つ山容を表わすとともに、神々の顕現の意味もあった。氷見(ひみ)や能登の海岸から見晴るかす立山連峰は、壮大な屏風のように連なりタチヤマを実感する。標高は3015m。独立峰ではなく、南北に連なる連山で、雄山(おやま)・大汝峰(おおなんじみね)・別山(べっさん)の総称が立山である。「人登るべからず」とされた険阻な剱岳が立山に対峙して北方にそびえる。1907年に陸地測量部が山頂を踏破したときに、平安時代初期にさかのぼる錫杖頭(しゃくじょうとう)と剣が発見され、山岳行者の修行のすごさに圧倒された。立山は、平安時代から山中に地獄があるという話が都に広く知られ、法華経(ほけきょう)による滅罪や観音信仰による救済が願われた。
立山の開山伝承は狩猟とかかわる。越中の城主・佐伯有頼(さえきありより)が狩りに出て鷹に導かれ熊を追って山中に入り込み、立山の直下の玉殿岩屋(たまどののいわや)の前で、矢傷を負った阿弥陀如来と遭遇する。獣は如来の化身であるとわかり、殺生をやめて出家して僧となって慈興(じこう)と名乗り、寺を建てて神仏を祀ることになった。701年とされる。現在でも慈興の入定塚(にゅうじょうづか)が山麓の中宮芦峅寺(ちゅうぐうあしくらじ)に残る。山岳修行は、室町時代末期には大日岳を金峯山(きんぷさん)に見立てて峯入り修行する行者がいた形跡があるが、近世には修験は消滅した。近世以降、道者の登拝で賑わったが、登拝道は岩峅寺(いわくらじ)・芦峅寺を経由しての一方通行で、信濃への道は加賀藩が国境越えを禁止したので行き止まりであった。
芦峅寺は無本山の天台宗衆徒から構成され、登拝の道者を泊める宿坊を営み山案内の「中語」としても活動した。中語は旧跡を案内して由来を語り聞かせる、神仏と人間の間に立つ巫者(ふしゃ)的な存在でもあった。山中は山麓の岩峅寺の衆徒の管理下にあり、お盆には血の池地獄に血盆経を投げ入れて女人往生を祈念した。岩峅寺の信徒圏は越中に留まる。他方、芦峅寺は尾張・美濃・三河を中心に檀那場(だんなば)をもち、各地で配札と御祈祷、立山曼荼羅の絵解きを行って、夏山の禅定を促した。2カ月の間に立山・白山・富士山をめぐるという過酷な三禅定を行った記録は芦峅寺の檀那場、特に知多半島に多く残り、江戸時代初期には成立していた。信仰の力の強さを伝えている。
立山は女人禁制であったが、芦峅寺では毎年、秋の彼岸(ひがん)の中日に布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)という女性の極楽往生を願う儀礼を行い、白い布を敷き詰めた布橋の上を女性が目隠しして、女人結界を越えて対岸の姥堂(うばどう)に入堂して護符と血脈を授かり、立山連峰に沈む夕日を見て浄土を幻視し往生を確証した。女性の救済者は山の神の姥尊(うばそん)で日本全国66カ国の姥尊と三体の姥尊が祀られていた。現在でも姥尊は3月に芦峅寺の女性がお衣替えをして祀る。
江戸時代後期の18世紀には立山参詣を勧めるための立山曼荼羅が数多く描かれて各地で絵解きが行われた。曼荼羅には開山伝承とともに地獄・極楽、阿弥陀二十五菩薩来迎を描き、芦峅寺の曼荼羅には布橋灌頂会が描き込まれ、参詣の功徳(くどく)を喧伝した。幕末には江戸城大奥の信仰が篤く、2週間にわたり城内で立山曼荼羅を展観したこともある。皇女和宮が早逝(そうせい)した夫・徳川家茂の供養に寄進したとされる1866年の立山曼荼羅が残されている。
立山の祭神は立山権現、本地阿弥陀如来、劔岳は刀尾(たちお)権現、本地不動明王であった。明治以降は神道化されて伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と手力雄尊(たじからおのみこと)が祭神となった。岩峅寺は前立社壇、芦峅寺は中宮祈願殿、山上は峰本社となり、三社併せて雄山神社というかたちに再編成された。仏教色は払拭され、アルピニズムの殿堂として多くの登山客を集め、学生登山も多く行楽客で賑わいを見せる。1971年には「立山黒部アルペンルート」が開通し、多くの観光客が訪れている。
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text: Masataka Suzuki illustration: Kento Iida
Discover Japan 2024年8月号「知的冒険のススメ」