温泉は武将にとって力の源だった
湯治文化を広めたのは徳川家康!
|日本人と温泉にまつわるエトセトラ②
多くの火山を有し、全国各地に多様な温泉をもつ日本。日本人にとって温泉は野戦病院として利用されるほど、病気やけがの治療の選択肢として大切にされてきた。
今回は、群雄割拠の乱世を制する武将の必須条件ともいえる温泉が果たした野戦病院としての役割について紹介する。
武将の力の源も温泉!
信玄や謙信の“隠し湯”という言葉がある。戦国の武将がいかに温泉好きであったかを表す言葉だ。だが、本来の意味は「温泉を制する者は権力を手にする」ということであった。温泉は、刀傷を負い疲弊した兵士たちを治癒する“心身再生の場”、つまり野戦病院であった。“効く”温泉をもつことは、群雄割拠の乱世を制する武将の必須条件といえた。温泉のなかった尾張三河の武将、信長、秀吉、家康が外へ勢力を拡大したのは必然だった。天下人となった秀吉は有馬、家康は熱海を掌中に収め、ともにわが国を代表する温泉地に発展させた。天下人が愛する温泉は武将にとっても、庶民にとっても“漲るパワー”の象徴であったからだ。
時代は遡り、後に鎌倉幕府を開く源頼朝も、伊豆山神社のふもとの横穴式源泉“走り湯”の温泉パワ−に魅せられた。走り湯は頼朝が北条政子と忍び逢い結ばれた伊豆山神社の“神湯”として篤く信仰されていた。頼朝は源氏再興の兵を挙げるに際して、伊豆山に祈願し、走り湯で禊をしている。
徳川家康が湯治文化を広めた!
関ヶ原の戦いから4年後の1604(慶長9)年、徳川家康が熱海で湯治をした。この瞬間、その歴史的事実をもって、“温泉大国”における熱海の位置づけが決定した。熱海は天下人家康によって、数ある名湯から選ばれた“温泉の中の温泉”となったのだ。しかも家康の湯治が、世界でも類を見ない温泉と庶民の濃厚な関係を形成する端緒ともなった。
熱海の湯に絶大な信頼を置いた家康は、関ヶ原で自分に忠勤した吉川広家のために伏見(京都)へ5桶の湯を運ばせたり、病気療養中の部下の立花宗茂にくみ湯を使わせている。
家康の熱烈な温泉好きが伝わって、歴代の将軍たちも温泉に執心した。8代吉宗などは1726(享保11)年からの8年間に、熱海の湯を3643樽も江戸城へ運ばせ湯治をしている。将軍への献上湯の湯元である熱海などにとって、くみ湯は格好の宣伝となった。「将軍さまがお城までわざわざ運ばせるほどだから、温泉は余程効くらしい」。
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火つけ役は医者だった!
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text: Tadanori Matsuda
Discover Japan 2024年2月号「人生に効く温泉」