豊臣秀長が攻略した
紀州・四国の城3選
|豊臣兄弟ゆかりの城
これまで秀吉が主役になることはあったが、2026年はその弟・秀長が脚光を浴び、大河ドラマで主役を務めている。そこで、歴史著述家である上永哲矢さん監修のもと、下層身分から天下人へと上り詰めた豊臣兄弟たちの活躍を追いながら、ゆかりの「城」を解説。今回は、豊臣秀長が攻略した紀州・四国の城をご紹介!
上永哲矢(うえなが てつや)
歴史著述家/紀行作家。各種雑誌やウェブサイトに歴史コラムを寄稿。著書に『戦国武将を癒やした温泉』(イカロス出版/山と溪谷社)、『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)など。
徳島《一宮城》
1585年 秀長と長宗我部元親の攻防の舞台

「小牧・長久手の戦い」から1年後の1585(天正13)年、秀吉は紀州・四国の攻略に乗り出した。まず紀州を平定した秀吉は、ほぼ休む間もなく四国攻めを開始する。だが、このとき秀吉は体調が思わしくなかった。そこで見舞いに来た弟・秀長を四国攻めの総大将に任じた。自身は岸和田城(現在の大阪府)に在陣、療養しながら、指揮を執ることとした。
当時、長宗我部元親が四国統一を目前にしていた。当初、元親は秀長の軍勢を恐れず全軍を挙げての防戦を命じた。しかし秀長軍は三方から海を越えて押し寄せる。
長宗我部軍との激戦が行われた主戦場のひとつが一宮城だ。城を守る長宗我部軍は1万弱の兵でよく支えたが、秀長の本隊だけでも4万の大軍。一宮城を脱した家臣らは元親に降伏を進言。数の差はいかんともし難く、ついに降伏した。
一宮城跡
住所|徳島県徳島市一宮町西丁
Tel|088-621-5419
開城時間|24時間
休城日|なし
料金|無料
和歌山《和歌山城》
1585年 秀長の家臣だった藤堂高虎が
手掛けた近世城郭

秀吉が1585(天正13)年3月から4月にかけて行った紀州攻め。紀伊の国人(豪族)である雑賀衆に加え、根来衆や粉河寺衆、高野山といった寺院勢力の勢いが盛んだった紀州は、信長の代から衝突が繰り返されていた。だが秀吉の軍勢はそれまでの大名とは違った。一度撃退しても次々押し寄せる大軍。紀州の諸勢力は支えきれなくなり降伏を余儀なくされた。
紀州平定後、秀長は紀伊・和泉の2カ国を秀吉から与えられた。秀吉は自ら築城地として雑賀の地を選び、ここに新たな城を建てるよう命じた。秀長は藤堂高虎らを普請奉行に任じて築城させ、「和歌山城」と命名した。
和歌山城は江戸時代の徳川御三家のひとつ、紀州徳川家の城として名高いが、秀長の時代の石垣が残り戦国期の風格を漂わせる。
和歌山城
住所|和歌山県和歌山市一番丁3
Tel|073-435-1044
開城時間|9:00~17:30(最終入城17:00)
休城日|なし
料金|410円
https://wakayamajo.jp
奈良《高取城》
大和国統治のために改修された日本三大山城

もとは大和国の豪族・越智氏が治めていたが、戦国時代に郡山城の城主・筒井順慶が大規模な城に改修。後に筒井氏は秀吉の配下となり伊賀へと転封される。
1585(天正13)年、紀州攻め後、それに代わって大和国の領主となったのが秀長だ。秀長自身は大和の中心地・郡山城へ入り、支城の高取城を重臣の本多利久に与えた。本多氏は秀長の没後、秀吉に仕え、さらに徳川家康に仕え江戸時代には高取藩主となる。そして高取城は江戸時代を通じて藩の中心として機能した。
比高390m、周囲約30㎞に及ぶ日本国内で最大規模の山城。備中松山城(現在の岡山県)、岩村城(現在の岐阜県)とともに日本三大山城のひとつ。石垣は当時のまま現存しており、門は街中の公園や寺に移築され残っている。
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高取城跡
住所|奈良県高市郡高取町高取
Tel|0744-52-1150
開城時間|24時間
休城日|なし
料金|無料
1|墨俣一夜城
2|岐阜城
3~5|金ヶ崎城/小谷城/長浜城
6|姫路城
7~11|竹田城/有子山城/三木城/鳥取城/備中高松城
12|清洲城
13|大坂城
14|犬山城
15~17|一宮城/和歌山城/高取城
text: Tetsuya Uenaga
2026年4月号「地域の“旬”感へ」































