首里城の歴史について知る
|首里城正殿、復興のいま
2026年秋の正殿完成に向けて、着々と復元工事が進む「首里城」。琉球文化の保存や継承とともに、伝統技術を次世代に受け継ぐ機会にもなっている。首里城正殿の復元が進むいま、改めて歴史を追う。
Q1 首里城はどんな歴史をたどってきたの?
| 1429年 | 琉球王国の成立 |
| 1453年 | 「志魯・布里の乱」で首里城全焼 |
| 1609年 | 薩摩による琉球侵入 |
| 1660年 | 首里城焼失 |
| 1672年 | 首里城再建 |
| 1682年 | 龍頭棟飾を正殿の屋根に設置 |
| 1709年 | 首里城焼失 |
| 1712年 | 首里城再建、1715年に完了 |
| 1768年 | 正殿の大修理 |
| 1853年 | ペリー提督来琉。首里城を訪問 |
| 1872年 | 琉球藩の設置 |
| 1879年 | 琉球王国が崩壊し、沖縄県に。 首里城が日本軍の駐屯地になる |
| 1925年 | 正殿が国宝に指定される |
| 1945年 | 沖縄戦により首里城焼失 |
| 1950年 | 首里城跡地が琉球大学キャンパスに |
| 1972年 | 日本本土復帰 |
| 1989年 | 正殿、「平成の復元」工事に着手 |
| 1992年 | 正殿、復元完了 |
| 2000年 | 首里城跡などが世界遺産に登録される |
| 2019年 | 正殿など焼失 |
| 2022年 | 正殿、「令和の復元」工事に着手 |
| 2025年 | 正殿外観の完成 |
| 2026年 | 秋、正殿復元工事完了予定 |
A 5度の焼失、駐屯地や学校になったことも
正殿は5度の焼失を乗り越えてきた。第二次世界大戦中には、日本軍が米軍の沖縄侵攻に備えるために地下に壕群を設置。1945年に沖縄戦がはじまると攻撃目標となり、首里のほぼすべての建物が焼失。跡地に琉球大学が建てられたが、その後、首里城が復元された。
Q2 首里城はなんのための建造物?

A 琉球国王の住まいで行政・信仰の中心だった
首里城は大きく3つのエリアで構成される。正殿より西側の範囲に儀式に関する施設が建つ①政治・行政空間、信仰上の聖域が集まる②祭祀空間、王族に仕える女官が暮らす「御内原」がある③生活・儀礼空間。正殿は国王自ら儀式や政治を行う中心的な建物だ。
Q3 首里城で生まれた文化は?

A 料理、芸能、工芸……
外国の使者をもてなす文化が発展
中国との冊封体制、薩摩藩による統治体制、ペリー提督の来琉など、多様な文化をもつ賓客を受け入れてきた琉球王国では、外交政策としてのもてなし文化が発展。国王主催の宴「七宴」で提供される琉球料理、組踊や琉球舞踊に代表される芸能、染織物などの工芸品が生まれた。
Q4 首里城正殿ってどんな建築物?

A 中国と日本から影響を受けた独自の様式をもつ
〈Point〉屋根の構造と末広がりの石階段
唐玻豊の後ろの三角屋根は、琉球王国独自の構造。日本では屋根の後ろまで弓なりのカーブを描く。屋根の曲線は高度な技術と手間がかかるため、正面から見えないところは直線で仕上げたといわれる。末広がりの石階段も唯一無二の意匠。さらにその両脇の「大龍柱」は龍が自らの胴体に尻尾を巻きつけて直立していて、この姿も琉球ならではだ。
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唐玻豊とは、屋根の頭部に丸みをつけ、両側にかけてゆるやかに低くするつくりのことで、主に日本の社寺建築で見られる(沖縄以外では「唐破風」と書くのが一般的)。唐玻豊をもつ宮殿は首里城のみといわれている

正殿は中国・北京の「紫禁城」(写真)がモデルといわれる。2層づくりの屋根、基壇(基礎部分)の上に建物を建てる構造からその影響が見て取れる。ただし、首里城正殿は3階建て。これは諸外国の宮殿には見られない独自性といえる
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text: Discover Japan photo: Yukiko Shiraki
2026年3月号「訪ねる建築 暮らす建築」



























