令和の中山道の歩き方
岐阜の宿場町をめぐる旅
前編|歴史文化に触れて、江戸の旅人気分を味わう。
つづら折りの坂や険しい峠が続く中山道において“砂漠のオアシス”であった岐阜17宿。「東美濃」(東濃)地域随一の豪商が築いた「中津川宿」に、多くの旅籠が営まれていた「大井宿」。かつての旅人に思いを馳せつつ令和の視点で宿をめぐれば、歴史文化の意外な一面が見えてくる。前編では、歴史文化からめぐるスポットや宿をご紹介。
line
《歴史文化》
浮世絵にも描かれた峠道で
江戸の旅人気分を味わいたい

行く手を阻むように立ちはだかる険しい峠を越えると、広がるのは「東美濃」(東濃)地域最大の宿場町「中津川宿」。中山道を行脚する人々にとっては安息の地であり、山あいの田舎町でありながらも情報が集まる拠点であったと教えてくれたのは、中津川市中山道歴史資料館の伊藤眞一郎さん。
「ここは江戸や京都で学んだ国学者や医者が多く、黒船来航の際には江戸から情報がいち早く届いたといわれるほど。国政に影響を与えたと思われる文書が残るなど、尾張藩の領地ではあるものの、実際は本陣と商家が支えていた特異な町です」

北に向かえば飛騨高山を抜けて金沢に、南に行けば名古屋に三河と、中津川宿が発展したのは街道が東西南北に交差する立地が大きい。
東海道のような川留めもなく比較的安全とされた中山道は、人、物、情報が行き交う本州の大動脈であった。伊藤さんによれば、その起こりは飛鳥時代の「古東山道」にまでさかのぼるという。

「『日本書紀』にもありますが、前身である東山道は現在の中山道にほぼ沿った街道で、飛鳥時代から結構な人の往来があったことがわかっています。いまも中央本線は、ほぼ同じ道を通っていますね」
徒歩、汽車、自動車と時代とともに移動手段は変わっても、街道のかたちは1400年以上も前から、ほとんど変わっていないのだ。

参勤交代の大名や商人が行き交うのみならず、お伊勢参りや御嶽登山へと向かう人々の旅路でもあった中山道。
「木曽檜や養蚕で財をなした中津川宿には大概のものが揃っていました。江戸や京都の人から見た中部山岳地帯は宝の山だったかもしれませんね」と伊藤さんが話す通り、道程に設けられた宿場町は、寝泊まりはもとより食や物資の調達先でもあった。
薬・衣類・日用品をはじめ、山深い里にもかかわらず富山湾や三河湾から運ばれてきた塩漬けの魚までもが揃っていたといい、大井宿で約400年前から続く旅館「いち川」の蔵からは、海藻の乾物も発見されている。
line
岐阜県内を東西に走る“中山道”

「中山道六十九次」において、43番目の馬籠宿から59番目の今須宿まで17の宿場町が横断する岐阜県内。今回は戦火を免れたために貴重な資料が残る中津川宿など、東美濃を中心にめぐった。


line
〈中津川宿〉
中津川市中山道歴史資料館

岐阜の中山道の歴史文化を知る資料館へ
中津川宿本陣の当主を務めた市岡家と、問屋役である間家に残っていた数万件もの資料を保管。館内には孝明天皇の妹・和宮親子内親王が、約2万人の大行列を組んで京都から江戸へと中山道を下向した「和宮降嫁」の貴重な資料をはじめ、中津川宿が政治の裏舞台であったとされる資料、長州藩士・桂小五郎の滞在を示す中津川会談の証拠となる古文書などを展示。飛鳥時代から連綿と続く美濃の中山道の歴史に触れたい。


住所|岐阜県中津川市本町2-2-21
Tel|0573-66-6888
開館時間|9:30~17:00 (入館は16:30まで)
休館日|月曜
料金|無料
www.city.nakatsugawa.lg.jp/museum/n/index.html
〈大井宿〉
旅館 いち川

旅の拠点にしたい、日本現存最古の旅籠
美濃の宿場町の中で最も多い41軒の旅籠が軒を連ねていた大井宿において、唯一現在まで続く料理旅館。約400年前に初代・市川左右衛門が旅籠「角屋」をはじめてから現在の女将で16代目であり、北原白秋や若山牧水などの文人にも愛されてきた。
line

住所|岐阜県恵那市大井町95-1
Tel|0573-25-2191
客室数|10室
料金|1泊1室2食付2万1000円~(税・サ込)
カード|AMEX、DC、JCB、VISAほか
IN|16:00〜18:00
OUT|10:00
夕朝食|和食(食事処)
アクセス|車/中央自動車道恵那ICから約5分 電車/JR恵那駅から徒歩約7分
施設|食事処
https://ichikawaryokan.jp
食と伝統工芸とは?
≫次の記事を読む
text: Natsu Arai photo: Norihito Suzuki
2025年8月号「道をめぐる冒険。」



































