明智光秀×山代温泉
意外にも風呂好きで社交的だった?
|あの武将の温泉好きエピソード②
戦国時代の名将にも温泉を愛し、湯に癒しを求めた人は多い。戦いの合間に彼らが温泉地で過ごした逸話あれこれをピックアップ。
今回は、「本能寺の変」で知られる明智光秀が滞在した山代温泉を紹介する。
明智光秀(生年不詳-1582)
通称は十兵衛。美濃(岐阜県)の守護・土岐氏の支族出身と伝わるが異説もあり、その前半生には謎が多い。織田信長と足利義昭との交渉役を務めるなど内政・外交面で功績を残した。1582年、本能寺で織田信長を討った
山代温泉
石川県加賀市。725(神亀2)年開湯と伝わる。平安時代後期に明覚(みょうかく)が薬王院温泉寺を創建。湯は無色透明で弱アルカリ性硫酸塩温泉
明智光秀といえば「本能寺の変」。主君・織田信長を討った謀反人として記憶している人が多いに違いない。その事績から、どこか「怖い」とか「不気味」といった印象をおもちの方もいるだろう。しかし、彼は人づき合いも決して苦手ではなく、記録から人脈の広さもうかがわせる。『明智軍記』に記される山代温泉への旅行も、そうした人物像を浮かび上がらせる。
1565(永禄8)年5月上旬、光秀は越前(福井県)にいた。当時、彼は小瘡(できもの)に悩まされており、休暇を利用して、近くの寺に住む園阿上人や従者と一緒に山代温泉へ出掛ける。
「十日ばかり山代の温泉に入湯しければ、小瘡ことごとく平癒す」つまり十日ほどで小瘡も癒えたようだ。その間、光秀は寺社参拝をしたり、茶会に興じたりして愉しんでいる。滞在先の宿に越前からそうめんが届いたので、近所の人、従者や下人と一緒に食したなどと書いてあり、ずいぶんのんびり楽しんだ様子がうかがえる。まだ信長に仕える前で、精神的ストレスもそれほどなかったのかもしれない。
山代温泉は古くからある共同浴場の「古総湯」を中心に広がる湯の町だ。光秀が滞在した薬王院がすぐ近くにあり、この古総湯の場所あたりに当時も湯屋があり、光秀もそこで山代の湯に浸かったのだろう。光秀が山代温泉を訪れたのは、おそらくこのとき限りだと思われる。しかし、彼は風呂好きだったのか、入浴に関するエピソードが史書にふたつある。
ひとつは彼と親しかった京都の公家・吉田兼見が残した日記『兼見卿記』。そこには光秀が二度、兼見宅に風呂を借りにきたとある。日付は1570(元亀元)年旧暦11月13日。光秀が兼見の家に来て「石風呂を所望したい」というので、使わせたとある。さらに10日後の11月23日にも風呂を借りにきて「早々に石を焼いた」とある。少しでも早く風呂に入りたかったのかもしれないが、2度も借りにくるとなると、両者はよほど親しい間柄であったと思わせる。
また天正3年(1575)、光秀の居城・坂本城(滋賀県)を訪れた島津家久を湯殿に招き、酒宴や歌会でもてなしたという。光秀と家久が一緒に風呂へ入ったかまでは不明だが、このように楽しげな入浴風景はほとんど見当たらず、貴重な記録ともいえよう。
当時の風呂は蒸し風呂だった!
光秀が吉田兼見に借りた風呂や、島津家久を招待した湯殿はおそらく当時の一般的な風呂であった「蒸し風呂」、いまでいう「サウナ」と思われる。狭い湯屋の中に熱した石を置き、それに水をかけ、立ち上る蒸気で室内を満たして室温を上げ、それで汗を出して身体をこすって湯で流すというもの。兼見が「石を焼いた」と書いたのは石を火で熱したという意味である。「風呂」の語源はよくわかっていない。一説に「室」(むろ)が語源になっているとも、空気(蒸気)を意味する言葉ともいわれる。一方で湯や水に浸かることは「入湯」や「湯浴み」と表す
汚名を洗い流し、供養する明智風呂
秀吉と「山崎の戦い」で戦うも敗れて世を去った光秀。それから5年後の1587(天正15)年、叔父の密宗(みっしゅう)が京都の妙心寺に浴室(明智風呂)を寄進して建てた。光秀の菩提を弔うための施設で、寺では「謀反人の汚名を着せられたので、それを洗い流すためではないか」と参拝者に説明している。以来毎年、命日の6月14日に浴室を信者に開放する「施浴(せよく)」が昭和のはじめまで続けられていた
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text:Tetsuya Uenaga illustration: Minoru Tanibata
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