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豊臣秀吉×有馬温泉
後半生だけで9回も公式に湯治!
|あの武将の温泉好きエピソード①

2024.2.26
豊臣秀吉×有馬温泉<br><small>後半生だけで9回も公式に湯治!<br>|あの武将の温泉好きエピソード①</small>

戦国時代の名将にも温泉を愛し、湯に癒しを求めた人は多い。戦いの合間に彼らが温泉地で過ごした逸話あれこれをピックアップ。
 
今回は、温泉好きの戦国武将としても知られる豊臣秀吉が愛した有馬温泉を紹介する。

豊臣秀吉(1537-1598)
織田信長に小者(こもの)として仕えて頭角を現し、城持ち大名に出世。本能寺の変で信長が倒れた後、明智光秀や柴田勝家を破り、信長の後継者争いを制す。四国・九州・東北を従え、1590年に天下統一を果たした

有馬温泉
兵庫県神戸市。奈良や京都といった都市に近く、古くから皇族や公家が訪問していた。鉄分と塩分を含む褐色の「金泉」と、なめらかで無色透明の「銀泉」の2種の源泉がある

「戦国武将で一番の温泉好きは?」と聞かれたら、この人の名前をまず挙げなくてはならないだろう。そう、日本人なら誰もが知る天下人・豊臣秀吉だ。その秀吉が愛したのが有馬温泉である。
 
古来、舒明天皇や藤原道長、足利義輝など、まさに錚々たる面々が訪れていた名湯。秀吉が目をつけたのも当然といえば当然だろう。彼がはじめて有馬に来たのは、1580(天正8)年頃からといわれる。三木城攻めを終えた秀吉は疲れを癒すためか有馬を訪れて休息。2日間も眠り続けたという(『温泉寺古写記』)。過酷な戦いを終え、身も心も安らいだのだろう。 
 
時は流れ、3年後の1583(天正11)年、秀吉は再び有馬を訪れた。「本能寺の変」で信長が討たれた翌年のことで、この年には大坂城を築きはじめている。信長の後継者になろうと戦い続けていた時期で、そのさなかにも湯治で心身をリフレッシュする必要があったのかもしれない。かくして、すっかり有馬が気に入った秀吉は以後、毎年のように政務の合間を縫って湯治に訪れるようになる。
 
有馬温泉にはいくつも源泉が湧き出しているが、秀吉が最初に滞在していたのは現在の「天神泉源」付近にあった阿弥陀寺だ。そこを宿所にして側近の石田三成ほか、千利休や津田宗及といった茶人を呼び、湯上がりに茶会を催したり、妻のねねを呼んで一緒に過ごしたりした。当然、来客も多くなるため、ついには「極楽泉源」のそばに自分専用の湯御殿まで建ててしまう。なんともわがままだが、民家にはたっぷりと立ち退き費用も支払っている。よくも悪くも、秀吉はこうして有馬で散財して温泉地の発展にも寄与していたし「天下人の湯」となって、さらに箔がついたのは確かといえるだろう。 結局、秀吉の有馬湯治は記録にあるだけで9回に上った。44歳から亡くなるまでの15〜16年ほどの間でその回数だから、いかに彼がこの温泉を愛したかがわかる。
 
秀吉の専用御殿「湯山湯殿」の跡地では、当時一般的だった蒸し風呂や岩造りの湯船が発見された。ほかにも碁石、伊万里焼の皿、中国製の茶碗などの生活用品、さらには人間の頭髪や体毛が出ている。それらの出土品が、ここで太閤秀吉が寛いでいたという「生活感」を漂わせているようで、それがまたよいのである。

黒田官兵衛が秀吉に勧めた?
秀吉に有馬温泉を勧めたのは、彼の参謀格として知られる黒田官兵衛(孝高)だったという説がある。もともと官兵衛は有馬温泉に近い姫路城の城主だった。秀吉の軍勢が中国地方へやってくると、この城を秀吉に差し出して、いち早く協力を申し出ているのだ。その官兵衛自身、秀吉が姫路へ来るより早い時期の1579(天正7)年、有馬で湯治している。敵方に捕らえられ、1年半も牢獄に入れられて衰弱しきっていたが、何日か有馬で療養して元気を取り戻している。官兵衛も晩年まで有馬での湯治をしていた様子を伝える書状が残っている

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明智光秀×山代温泉
 
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《あの武将の温泉好きエピソード》
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4|前田利家×草津温泉
5|武田信玄×湯村温泉
6|上杉謙信×野沢温泉

監修・文=上永哲矢(うえなが てつや)
歴史ライター、コラムニスト、紀行作家。全国の史跡取材のかたわら、こよなく愛する温泉を頻繁に訪問。著書に『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と溪谷社)、『密教の聖地 高野山』(三栄)など

text:Tetsuya Uenaga illustration: Minoru Tanibata
Discover Japan 2024年2月号「人生に効く温泉」

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