武田信玄×湯村温泉
惨敗の傷を癒した信玄の地元湯
|あの武将の温泉好きエピソード⑤
戦国時代の名将にも温泉を愛し、湯に癒しを求めた人は多い。戦いの合間に彼らが温泉地で過ごした逸話あれこれをピックアップ。
今回は、「信玄の隠し湯」と呼ばれる温泉地の中で武田信玄自身が利用した唯一の温泉である湯村温泉を紹介する。
武田信玄(1521-1573)
甲斐の守護大名・武田氏の第16代。本名である諱(いみな)は晴信。甲斐をはじめ信濃・駿河・西上野など当時指折りの勢力を築いた名将。上杉謙信との川中島の戦いで有名
湯村温泉
808(大同3)年に弘法大師(空海)により発見されたという説がある。毎分1tの良質の高温泉が湧出するなど湯量の多さは健在
かつて武田信玄が政庁とした、躑躅ヶ崎館跡(武田神社)があるJR甲府駅付近から西へ車で約10分。そこにあるのが湯村温泉だ。
「信玄の隠し湯」と呼ばれる温泉地は数多い中、武田信玄自身が利用したと史料に記される唯一の温泉地が、この湯村温泉なのである。当時は「島の湯」と呼ばれ、すでに温泉地として名高かったらしい。1548(天文17)年、信玄は信濃(長野県)北部にある上田原へ出陣した。そこで在地の有力豪族・村上義清と激突するが、宿老の板垣信方、甘利虎泰が戦死し、信玄自身もふたつの傷を負うなど完敗を喫した。「晴信(信玄)公も、うす手を二ヶ所おはせられ」と、武田家の公式記録『甲陽軍鑑』に記載されている。続けて「三十日の間甲州島の湯にて」と「島の湯」つまり湯村温泉へ向かい、そこで傷の治療に専念したと書いてある。そうした「リハビリ」のかいあって1カ月後には戦線復帰を果たした。湯村こそ名将・信玄を癒した、彼の地元の湯なのである。
信玄が整備を命じた川浦温泉
武田信玄は自分の領地にある温泉地経営にも気を配っていた。山梨・甲州にある菩提寺、恵林寺(えりんじ)に『湯屋造営本願之事』という信玄自筆と伝わる書状が保管されている。川浦温泉への下知状(げちじょう)で「勧請で寄付金を集めて湯屋を設け、しっかり整備せよ」という命令書だ。この温泉は信玄の重臣・山縣昌景の子孫が経営して代々引き継がれ、現在の旅館「山県館」に続く。「信玄が温泉好き」と広まったのはこのような事績からといえよう
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text:Tetsuya Uenaga illustration: Minoru Tanibata
Discover Japan 2024年2月号「人生に効く温泉」